李存進
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はじめ嵐州刺史の湯群に従った。湯群が誅殺されると、重進は李克用に仕えて、関中に入り、黄巣の乱を討った。太原府に凱旋して、牙職をつとめた。景福年間、義児軍使となり、李存進と改名した。存進は李克用に従って王行瑜を討ち、功により検校常侍を加えられた。李嗣昭とともに王珙を河中府で破った。光化3年(900年)、契丹が雲中に侵入すると、存進は永安軍使に転じ、雁門以北都知兵馬使に任じられた。天復元年(901年)、氏叔琮の前軍を洞渦で破った。天復3年(903年)、石州刺史となった[2]。
天祐5年(908年)、晋王李存勗が李克用の後を嗣ぐと、存進は歩軍右都検校司空に転じた。軍を井陘に出し、行営馬歩軍都虞候に任じられた。梁軍を柏郷で破り、功により邠州刺史となった。検校司徒を加えられ、まもなく西南面行営招討使を兼ねて、軍を出して慈州を攻め落とした。慈州・沁州の刺史を歴任した。天祐12年(915年)、魏博を平定すると、天雄軍都巡按使に任じられ、新軍の動揺をうまく抑えて威服させた。天祐14年(917年)、蕃漢馬歩副総管に進んだ[3]。
天祐16年(919年)、存進は振武軍節度使を兼ねた。徳勝渡で梁軍と対峙すると、存進は浮橋を造って、李存審とともに徳勝渡を守った。天祐19年(922年)、張文礼の乱で招討使の李嗣昭が戦死した後、李存進は後任の招討使となった。同年7月、東垣渡で待ち伏せに遭い、戦死した[4]。