王珙

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王 珙(おう きょう、生年不詳 - 899年)は、末の軍人本貫太原府祁県[1]

経歴

河中節度使王重盈の子として生まれた。王重盈に代わって陝虢節度使となった。乾寧2年(895年)、王重盈が死去すると、王重簡の子の王珂が河中の軍に推されて留後となった。王珙は弟の絳州刺史王瑶とともに王珂の継承に異を唱えて、宣武軍節度使の朱全忠の支援を求めた。これに対して王珂は河東節度使の李克用の支援を求めた。王珙は王行瑜李茂貞韓建の3節度使と結び、3節度使は王珙を河中節度使に推薦した。李茂貞ら3節度使が長安に乱入すると、朝廷により河中節度使の任は王珙に与えられた。王珙と王瑶は河中の王珂を攻撃した。李克用は怒り、出兵して3節度使を討った。王珙と王瑶は兵を退いた。李克用は絳州を攻め落とすと、王瑶を斬り、渭北に軍を宿営させた。王珂は昭宗により河中節度使に任じられた。太原県令の李嗣昭が兵を率いて王珂を助け、王珙を攻撃した、王珙は連戦連敗した。王珙は性格が残酷で、人が間違いを犯すと、必ず斬首して座前に置き、平然と笑っていた。部下はこれを苦にして、人心は離反していった。光化2年(899年)6月、王珙は部将の李璠に殺害された[2][3][4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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