李孝恭
From Wikipedia, the free encyclopedia

李 孝恭(り こうきょう、591年 - 640年)は、中国の唐の宗室。西平懐王李安の子。祖父は李蔚。唐の高祖李淵の従子にあたる。唐初に中国の南方を経略する主将をつとめ、凌煙閣二十四功臣の第二位に挙げられた。
唐初の宗室名将。総帥として巴蜀を統治し、荊湘を席巻したのみならず、雷霆の如き勢いで江南を平定し、嶺南を畏服させ、李唐王朝に半天下を築く基盤を固めた。その用兵は巧妙でありながら懐柔策をも兼ね備え、城塞を陥落させるだけでなく民情を安定させることにも長け、無闇な殺生を好まぬ仁徳をもって四方を帰順させた。後世においては武廟六十四将の一人に列せられ、李道宗とともに宗室の将帥の中でも最も有能な双璧と称されている。
大業13年(617年)、李淵が長安を平定すると、孝恭は左光禄大夫に任命され、間もなく山南道招尉大使となった。武徳元年(618年)、金州から巴蜀に進出して、三十余州を下した。進撃して、朱粲を破り、その部衆を捕らえた。諸将たちは「朱粲は食人の賊であるから、穴埋めにしてしまいましょう」と勧めたが、孝恭は「捕らえた者を殺しては降伏するものがいなくなる」と言って彼らを許した。
武徳2年(619年)、信州総管に任ぜられ、江陵に拠る蕭銑を平定する策を李淵に進言した。趙郡王に進み、信州が夔州に改称されると、そのまま夔州総管となった。孝恭は巴蜀の首領の子弟を徴用して自軍に編入した。荊湘道総管となり、李靖を副将に用い、水陸の十二軍を率いて、蕭銑を攻撃した。孝恭は鹵獲した戦艦を故意に長江中に放棄して、蕭銑への援軍に疑心暗鬼を起こさせた。蕭銑は江陵で孤立し、ついに唐に降伏した。
孝恭は荊州大総管となり、屯田を置き、銅冶を立てて民衆の便宜を図った。襄州道行台尚書左僕射となり、嶺南の四十九州に遣使して招撫した。輔公祏が江南でそむくと、孝恭は行軍元帥として李勣・李靖・黄君漢・張鎮周らの軍を率いて輔公祏を攻め、糧道を絶って敵を飢えさせ、これを大いに破った。東南道行台尚書左僕射に進み、行台が廃されると揚州大都督となった。邸に石頭城を築いて自衛のかまえをみせたため、謀反を誣告され、召還されて詰問された。謀反の実態がなかったため、許されて宗正卿に任ぜられた。実封千二百戸を賜り、涼州都督・晋州刺史を歴任した。貞観初年に礼部尚書に任ぜられ、貞観11年(637年)には趙郡王から河間郡王に改封された。
趣味は豪奢で、歌舞や美人を好んだが、人に対しては寛仁謙譲で、おごった様子を見せず、太宗にも重用された。貞観14年(640年)、飲中毒により亡くなった。享年は50。死後に司空・揚州都督の位を追贈され、元と諡され、献陵に陪葬された。
子に李崇義・李晦がいた。
評価
『旧唐书』:孝恭のみが方面での功績が顕著で、その名声は非常に高かった。自らを重んじて威厳を保ち、威名をもって遠方を鎮めようと、石頭城に屋敷を築き、兵舎と哨所を設けて自衛した。……河間王(李孝恭)の節度は神々にも通じ、その志は朝廷と国家を救わんとするものであった。故に、邪な力が正しい徳に勝たないことは明らかである。……河間郡王・李孝恭は、ただ一人、軍功をもって称えられたのである。
『新唐书』:景皇帝(李虎)と元皇帝(李昞)の子孫たちは、王朝創世の混沌とした時期に、時運に乗じて奮起した。高祖が四方の敵を討伐排除していた時、力を尽くして貢献し、いずれも世に名立たる豪傑・英雄となった。中でも、河間郡王(李孝恭)の軍功と江夏郡王(李道宗)の謀略は、宗室の模範と言うべきものである。
吕温:太極が天を構えるは、もとより一気より成る。大人(高祖)が創業するには、我が族類を資(と)る。堂々たる河間王(李孝恭)、仁と勇とを経範(おきて)とす。俊秀にして声譽高く、唐の宗室の英傑なり。暴虐なる隋は天に亡ぼされ、群盗猖獗す。我ら征伐して功を顕わし、時にこれ哲王(太宗)あり。武威は烈光ありて、爪翼(補佐)となり肺腸(腹心)となり、八方を経綸す。 南より東へと、海を晏(やす)らげ江を澄ます(蕭銑・輔公祏を平定)。父兄(高祖)をして天下に帝たらしめ、家を化して邦(国)と為さしむ。爾が力を竭くして用い、寵はその極みに至る。言に伐(ほこ)らず、色に徳(おご)らず。 遜(へりくだ)りて默し、柔嘉(柔和で善良)これ則りとす。高祖を佐けて大勲を建つること、周の旦や奭の如く、太宗と共に大成を守ること、漢の間や平(河間王・平陸王)の如し。君たるに宜しく王たるに宜しく、盤石のごとく無疆(永遠)なれ。
張预:李孝恭は若い頃から沈着聡明で、識見と度量を備えていた。……孫子は次のように述べている。『形之(姿を見せて偽装せよ)、敌必从之(敵は必ずそれに従う)』孝恭が船団を長江に展開して賊軍の援軍を欺いたのは、これである。『禁祥去疑(迷信を禁じ、疑念を取り除け)』孝恭が杯の水が血に変わる現象を「敵将の首が斬られる前兆」と解釈して兵士の心を落ち着かせたのは、これである。『以利动之(利で誘い出せ)、以卒待之(兵力で待ち伏せよ)』孝恭が弱兵を見せかけて敵を挑発し、精鋭の騎兵で迎え撃ったのは、これである。
黄道周:李孝恭は唐の宗族、智勇並ぶもの無し。巴蜀を征すれば、降伏する者相次ぐ。「捕虜皆殺しを」と請うも、孝恭は思案す。降って殺されば、誰が再び降らんや。蕭铣を包囲し、その防衛線を破る。獲たる軍艦を、流れに満ちて放つ。敵は壊滅と誤認し、敢えて迎え撃たず。真相を知。進軍すれど、もはや铣は降伏す。輔公祏叛く、丹陽を寇す。孝恭征討に赴くも、酒に血光浮かぶ。皆驚くも孝恭は賀す、「これは敵将討ち取りの吉兆」と。やがて公祏を擒にして斬り、河間の王に封ぜらる。