李建崇

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李 建崇(り けんすう、生年不詳 - 953年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫潞州[1]

若くして従軍し、騎射を得意とした。はじめ河東節度使の李克用に仕え、鉄林軍都将となり、突騎軍使・飛騎軍使を歴任した。天祐18年(921年)、晋王李存勗に従って鎮州を攻めると、契丹耶律阿保機が来援した。李存勗は自ら軍1000騎を率いていたが、満城県で契丹軍に遭遇すると、包囲された。建崇は昼間から夕方にかけて契丹軍と白兵戦した。李嗣昭の騎兵がやってくると、契丹軍は包囲を解いて去った[1]

後唐同光年間、建崇は奉聖軍左廂都指揮使から、襄州秦州徐州京兆府の都指揮使を歴任した。建崇は性格が素朴で人情厚かったことから、器用に振る舞うことができず、長らく出世できなかった。李嗣源は節度使の牙兵を管掌し、建崇と仕事をともにしたことがあった。明宗李嗣源が即位すると、建崇の地位の低さを憐れんだ。そこで建崇は磁州刺史・沁州刺史を歴任した[2]

天福元年(936年)、後晋が建国されると、建崇は申州刺史となった。天福7年(942年)冬、山南東道節度使の安従進が反乱を起こし、兵を率いて鄧州を攻撃した。ときに建崇は兵1000人あまりを率いて葉県に駐屯していた。開封尹・鄭王石重貴が宣徽使の張従恩や皇城使の焦継勲に在京の諸軍を率いさせて派遣し、建崇の軍と合流して反乱を討たせた。湖陽県の花山にいたって、安従進の軍と遭遇し、建崇は白兵戦して、安従進の軍を破った。功により亳州団練使に任じられた。襄州が平定されると、建崇は安州防禦使に転じた[3]開運元年(944年)、河陽節度留後となった[4]。開運2年(945年)、安国軍節度留後に任じられた[5]後漢のはじめ、入朝して右衛大将軍となった[3]

後周広順元年(951年)、太祖郭威が即位すると、建崇は左監門衛上将軍に転じた。広順3年(953年)春、死去した。黔州節度使の位を追贈された[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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