李彦珣

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李 彦珣(り げんしゅん、生没年不詳)は、五代十国時代官僚軍人本貫邢州[1]

若くして邢州の牙吏となった。天祐年間、李嗣源が邢州に駐屯すると、彦珣は自制がなく、側近でご機嫌取りをしていた。後唐天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、彦珣は通事舎人となった。あるとき剣南東川への使者として派遣され、その境までいたって、剣南東川節度使の董璋に従僕を奪い取られた。このため彦珣は逃げ帰った。長興元年(930年)、朝廷が董璋を攻めると、彦珣は行営歩軍都監に任じられた。彦珣は親不孝だったため、郷里からの食糧供給を断たれ、同僚にも憎まれて、ほどなく外任に出された。清泰2年(935年)、河陽節度行軍司馬に転じた[1]

後晋天福2年(937年)、張従賓が反乱を起こすと、彦珣は友人としてこれを助けた。張従賓が敗れると、彦珣は興唐府に逃亡した。范延光により歩軍都監に任じられ、城壁の守備を委ねられた。招討使の楊光遠は彦珣を降伏させようと、人を邢台に派遣してかれの母の身柄を得ると、城下に母の姿を見せて彦珣を誘った。彦珣は母の姿を認めると、矢を放って彼女を射殺した。のちに彦珣は范延光に従って降伏し、坊州刺史に任じられた。近臣が彦珣の悪逆ぶりを石敬瑭に上奏したが、石敬瑭は「ひとたび命を赦した以上、改めることはできない」といって、そのまま坊州に赴任させた。のちに彦珣は不正に財産を蓄えた罪で処刑された[1][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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