李徳休

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李 徳休(り とくきゅう、858年 - 931年)は、末から五代十国時代にかけての官僚は表逸。本貫趙州賛皇県[1]

進士に及第した。塩鉄官・渭南県尉・右補闕・侍御史を歴任した。天祐元年(904年)、長安洛陽が混乱に陥ると、徳休は河北に寄寓した。義武軍節度使の王処直に召し出されて従事となった。後唐同光元年(923年)4月、荘宗魏州で即位すると、徳休は召し出されて御史中丞となった[2]。10月、判東西両銓事をつとめた[3]。同光2年(924年)2月、兵部侍郎[4]に任じられた。11月、吏部侍郎に転じた[5]。のちに尚書左丞をつとめた[2]天成2年(927年)、礼部尚書として致仕した[6]長興2年(931年)8月27日、死去した[7]。享年は74。太子少保の位を追贈された[2]

家族

  • 祖父:李絳(山南西道節度使)
  • 父:李璋(宣歙観察使)[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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