李恵登

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李 恵登(り けいとう、生没年不詳)は、唐代軍人官僚本貫営州柳城県[1]

若くして平盧軍の裨将となった。安禄山が反乱を起こすと、恵登は平盧軍兵馬使の董秦に従って海上から滄州棣州などを奪回した。史思明が反乱を起こすと、恵登は反乱軍に捕らえられた。単身脱出して山南東道節度使の来瑱に投降し、右金吾衛将軍として試用された[2][1]

李希烈が反乱を起こすと、恵登は2000の兵を与えられ、隋州に駐屯した[2][1]貞元2年(786年[3]、州ごと帰順して、隋州刺史に任じられ、御史中丞を兼ねた。隋州は戦乱の後で荒廃していたが、恵登が統治に心を砕き、民衆の利益となることを進め、害となることを取り除いた。20年間で農地は開発され、人口は増加した。諸州の官吏もかれの有能を讃えた。于頔が山南東道節度使となり、かれの業績を奏聞すると、恵登は御史大夫を加えられた。ほどなく検校国子監祭酒を加えられた。のちに死去した。洪州都督の位を追贈された[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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