李懌 (後晋)
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幼くして文章を作ることができた。進士に及第し、校書郎を初任とした。集賢院校理や清河県尉を歴任した。後梁に入って、監察御史・右補闕・殿中侍御史・起居舎人・礼部員外郎・知制誥を歴任した。都官郎中に転じ、宮中に入って翰林学士となった。中書舎人に任じられ、金紫魚袋を賜った[1][2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府・洛陽を平定すると、李懌は懐州司馬に左遷された。赦令に遭って、孟州司馬に転じた。入朝して衛尉寺少卿となった[1][2]。天成元年(926年)、再び中書舎人に任じられ、翰林学士をつとめた[3]。天成3年(928年)、戸部侍郎に転じた[4]。長興元年(930年)、尚書右丞となり[5]、翰林学士承旨をつとめた[1][2]。応順元年(934年)、工部尚書に任じられた[6]。清泰元年(同年)、太常寺卿となった[7]。清泰2年(935年)、礼部尚書に転じた[8]。
後晋の天福4年(939年)、李懌は刑部尚書に任じられた[9]。開運元年(944年)、戸部尚書となった[10]。開運2年(945年)、兵部尚書に転じた[11]。開運3年(946年)、契丹が洛陽に入ると、ほどなく李懌は病没した。享年は七十数歳[1][12]。
家族
- 祖父:李褒(唐の黔州観察使)
- 父:李昭(唐の戸部尚書)[1]