李清照

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誕生 元豊7年(1084年
斉州章丘県(現在の山東省済南市章丘区
死没 紹興25年(1155年
職業 詞人、詩人
ジャンル 、文
李清照
李清照像、崔錯
誕生 元豊7年(1084年
斉州章丘県(現在の山東省済南市章丘区
死没 紹興25年(1155年
職業 詞人、詩人
ジャンル 、文
配偶者 趙明誠
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李 清照(り せいしょう、1084年 - 1155年[1])は、北宋末期・南宋初期の詩人。自らが易安居士と号した。斉州章丘県(現在の山東省済南市章丘区)の出身。父は李格非。母は宰相王珪の娘。夫は趙明誠(尚書右僕射趙挺之の子)。中国史上を代表する女流人として知られている。

李清照紀念堂(済南市

18歳の時、当時太学の生徒であった3歳年上の夫の趙明誠と結婚する。本や古器物をこよなく愛した二人は衣類を質に入れては気に入った本などを購入したと言われるほどの蔵書家であった。後に清照は夫の趙明誠の『金石録』編纂を手伝う事になる。

ところが、母の葬儀のために夫婦揃って帰郷の途中、靖康の変が発生して夫の任地も軍の攻撃を受けて蔵十数個に分散されていた蔵書類は悉く焼かれてしまう。更に1129年臨安の宮廷に召されていた夫の趙明誠が48歳で急死、清照とともに残された車十数台分の蔵書の残りも金軍の兵火と流民の略奪によって悉く失われた。更に再婚した夫の張汝舟に虐待された末に離別して流浪の生涯を送る中で優れた詞を多く生み出したと言う。

作品について

参考文献

脚注

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