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李済剛

朝鮮民主主義人民共和国の政治家(1930-2010) From Wikipedia, the free encyclopedia

李済剛(リ・ジェガン、朝鮮語: 리제강、1930年 - 2010年6月2日)は、朝鮮民主主義人民共和国の政治家。朝鮮労働党中央委員会組織指導部第一副部長(組織担当)、最高人民会議代議員などを務めた。

チョソングル: 리제강
漢字: 李濟剛
発音: リ・ジェガン
英語表記: Ri Je-gang
概要 李済剛, 各種表記 ...
李済剛
各種表記
チョソングル: 리제강
漢字: 李濟剛
発音: リ・ジェガン
英語表記: Ri Je-gang
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略歴

1973年に党組織指導部指導員として権力の中枢部門に入り、1982年に党組織指導部副部長兼金正日書記室書記に抜擢され、2001年からは党組織指導部第一副部長(組織担当)に就任した[1]。

党組織指導部は、朝鮮労働党、朝鮮人民軍、政府の人事権や粛清権を持ち、国家安全保衛部を手足のように使う事実上の権力の中枢機関であり、部長職は空席だが金正日自身が事実上の部長を務めていて、その下で3 - 4名の第一副部長が実務を掌っている[2]。李はその組織指導部第一副部長(組織担当)として大いに権勢を揮い、事実上の北朝鮮ナンバー2の座をめぐって、同部第一副部長(行政担当)であった張成沢とライバル関係にあるとされてきた[1]。

2002年頃、李勇哲(もしくは李容哲、リ・ヨンチョル)副部長とともに「朝鮮人民軍の母運動」を仕掛けた[3]。これにより、李済剛・李勇哲と金正日の側近で義弟の張成沢とは互いに監視しあう仲になったといわれ、実際、張成沢は、李済剛らの密告により2003年に一時失脚したことがある[3]。金正日は双方を互いに監視させ、自身の独裁につなげようとしたのである[3]。

李済剛は、公式には2010年6月2日に交通事故で死去したとされ、これに相前後して、同年4月に同部副部長(軍事担当)である李勇哲が心筋梗塞によって、翌年1月には同部副部長の朴正淳(パク・ジョンスン)が肺癌によって死去しており、9ヶ月間の間で3人の組織指導部副部長が相次いで死去していることから、そこには張成沢の暗躍があったのではないかと疑われている[3][4][5]。

張成沢は金正日より、金正恩への権力継承を円滑に進めるため、先軍政治によって肥大化した朝鮮人民軍、「金王朝」による独裁を支えてきた秘密警察である国家安全保衛部(現、国家保衛省)、それに、党や軍事の人事を一手に握り、最強の党機関として勢威を振るう労働党組織指導部の権力を削ぐための準備をするよう密命を受けていた[3]。張成沢は、この命令を忠実に守った[3]。組織指導部の権力縮小は、李勇哲と李済剛の相次ぐ不審死によって実現したが、平壌の住民で、2人の死を張成沢との権力闘争に結びつけない者はいなかったとさえいわれている[3][注釈 1]。

なお、張成沢・金敬姫夫妻が長男の金正男の後見役だったのに対して、李は高英姫の後押しを受け[8]、次男金正哲および三男金正恩兄弟の後見役だったといわれる[9][10]。張成沢としては、すべて金正恩のために動いたはずであったが、それもむなしく、2013年、金正恩自身によって粛清された[6]。

脚注

参考文献

関連項目

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