李祖虞
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清末に日本へ留学し、1908年(光緒34年/明治41年)に早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[5]。帰国後の1912年(民国元年)8月24日、北京政府にて京師高等審判庁推事として任用される。翌1913年(民国2年)10月5日、大理院推事となり、1915年(民国4年)9月4日、上士の位を授与された。1918年(民国7年)、司法官甄録試及初試典試委員と司法官懲戒委員会委員を経て、7月24日に大理院庭長に任ぜられている。1923年(民国12年)6月27日、庭長の地位を辞職した[6]。
蔣介石国民政府では、1934年(民国23年)2月8日に福建省政府委員兼民政庁庁長として起用され、翌1935年(民国24年)5月25日までつとめた[6]。退官後は上海で弁護士を開業し、上海弁護士協会会長に就任した[1][2]。
汪兆銘(汪精衛)による親日政権樹立工作に李祖虞も参加し、1940年(民国29年)3月20日から開催された中央政治会議に、諸青来と共に中国国家社会党代表として出席した[7][注 3]。同月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立すると、李は交通部常務次長に任命され[8]、中央政治委員会交通専門委員会主任委員も兼任した[9]。翌1941年(民国30年)8月16日、実業部政務次長に転じ[10]、1943年(民国32年)1月13日までつとめている[11]。同年中に国民政府政務参賛へ移り、1944年までは在任が確認できる[12]。
1945年(民国34年)8月の汪兆銘政権崩壊後に、李祖虞は漢奸として逮捕され、上海の監獄に収監された[13]。しかし、その後の審理状況や行方については不詳となっている。