李素立

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李 素立(り そりつ、生年不詳 - 650年)は、初の官僚本貫趙州高邑県[1][2]

武徳初年、監察御史となった。ときに法を犯して死罪に相当しない者がいたが、高祖が特別に命令してこの者を殺そうとした。素立はこれを諫め、高祖は聞き入れた。ほどなく父母が死去したため、素立は辞職して喪に服したが、高祖に官に復帰するよう命じられて、侍御史に抜擢された[1][2]

貞観年間、素立は揚州大都督府司馬に累進した[1][2]。貞観21年(647年)、突厥鉄勒部が帰順したため、太宗はその地に燕然都護府を置き、素立は燕然都護となった[3]。泥孰別部に使者を送って招諭し、降伏させた。北方民族はかれの寛容に感じ入って、馬や牛を引き連れて素立に贈ったが、素立は酒1杯を受けるのみで、残りは全て返還した。役所の建物を建てて、屯田を開いて置いた[1][2]。貞観23年(649年)、豊州都督府が置かれると、素立は豊州都督を兼ねた[4]太僕寺卿・鴻臚寺卿を歴任し、高邑県侯に封じられた。綿州刺史として出向した。永徽元年(650年)、蒲州刺史に転じた。赴任するにあたって、余剰の食糧や器物は綿州に置いていき、ただ書籍だけをもって出立した。道中に病没した。は平といった[1][2]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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