李蔚
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開成5年(840年)、進士に及第し、山南東道節度従事を初任とした。会昌4年(844年)、上京して官吏選抜の考査を通過し、さらに書判抜萃科に登第した。監察御史に任じられ、殿中監に転じた。大中7年(853年)、員外郎・知御史台雑事となった。ほどなく知制誥となり、郎中に転じ、中書舎人に任じられた。咸通5年(864年)、知礼部貢挙をつとめた。咸通6年(865年)、礼部侍郎に任じられ、尚書右丞に転じた。懿宗が仏教に傾倒しすぎていたため、李蔚は上疏して諫めた。ほどなく京兆尹・太常寺卿となった[3][4]。
咸通9年(868年)、李蔚は検校尚書右僕射・汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳潁観察等使として出向した[5]。咸通11年(870年)、揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事に転じた[6]。乾符元年(874年)、吏部尚書となった[7]。乾符2年(875年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[8][9]。乾符5年(878年)、検校司空・東都留守・東都畿汝州都防禦使として出向した[10][11]。乾符6年(879年)、河東で兵乱が起こり、崔季康が殺害されると、邠寧節度使の李侃が太原府に進駐したが、河東の軍情は落ちつかなかった。8月、李蔚は太原尹・北都留守・河東節度観察等使となった。この年の10月、太原府に着任したが、わずか3日で突然の病のため死去した[12][13]。