李蔚

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李 蔚(り い、生年不詳 - 879年)は、唐代官僚政治家は茂休[1][2]本貫隴西郡狄道県

開成5年(840年)、進士に及第し、山南東道節度従事を初任とした。会昌4年(844年)、上京して官吏選抜の考査を通過し、さらに書判抜萃科に登第した。監察御史に任じられ、殿中監に転じた。大中7年(853年)、員外郎・知御史台雑事となった。ほどなく知制誥となり、郎中に転じ、中書舎人に任じられた。咸通5年(864年)、知礼部貢挙をつとめた。咸通6年(865年)、礼部侍郎に任じられ、尚書右丞に転じた。懿宗仏教に傾倒しすぎていたため、李蔚は上疏して諫めた。ほどなく京兆尹太常寺卿となった[3][4]

咸通9年(868年)、李蔚は検校尚書右僕射・汴州刺史・宣武軍節度・汴宋亳潁観察等使として出向した[5]。咸通11年(870年)、揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事に転じた[6]乾符元年(874年)、吏部尚書となった[7]。乾符2年(875年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[8][9]。乾符5年(878年)、検校司空・東都留守・東都畿汝州都防禦使として出向した[10][11]。乾符6年(879年)、河東で兵乱が起こり、崔季康が殺害されると、邠寧節度使の李侃太原府に進駐したが、河東の軍情は落ちつかなかった。8月、李蔚は太原尹・北都留守・河東節度観察等使となった。この年の10月、太原府に着任したが、わずか3日で突然の病のため死去した[12][13]

家族

  • 祖父:李上公(司農寺卿、陝虢都防禦観察使)
  • 父:李景素(太子左庶子)[1][14]
  • 弟:李綰(字は権化)
  • 弟:李騫(字は図南)
  • 子:李渥(中書舎人・礼部侍郎)
  • 子:李洵(福建観察使)
  • 子:李涗(字は殷沢)[12][14]

脚注

伝記資料

参考文献

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