李襲吉

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李 襲吉(り しゅうきつ、生年不詳 - 906年)は、末の官僚文人

洛陽県令の李図の子として生まれ、洛陽に住んだ。李林甫の末裔を自称した。乾符5年(878年)に科挙に応じたが、反乱に遭遇して、河中府に避難し、河中節度使の李都を頼って、塩鉄判官に抜擢された。王重栄が代わって河中節度使となると、文士は好まれなかった。襲吉は李克用を頼って太原府を訪れ、太原府掾として任用され、楡社県令として出向した。中和4年(884年)、李克用が朱全忠の軍に上源駅で包囲されて、記室を失った。太原府に帰ったが、上奏をつかさどる新任の者が要領をえなかった、光啓元年(885年)、襲吉が文才により推薦され、試験されて李克用の意にかなったことから、即座に掌書記に任用された。襲吉は博学で広い分野に通じ、とくに唐朝の近年の事件を全て暗記していたため、その文章は典故に拠って練達していた。李克用が劉仁恭とのあいだで贈答のやりとりをした数百篇は襲吉の筆に成るもので、その警句は人口に膾炙した[1][2]

乾寧2年(895年)、襲吉は河東節度副使となり、王行瑜の討伐に従軍し、右諫議大夫に任じられた。凱旋して渭北にいたったが、李克用は入朝することができず、遺憾の意を表す上奏文を襲吉に書かせて、昭宗を感心させた。李克用が太原府に軍を返すと、王珂が夏陽渡に浮橋を作ったため、襲吉は従軍した。このとき襲吉は黄河に転落し、7・8里ほど流されたが、泳いで岸にたどりつき、落命を免れた[3]

天復3年(903年)、李克用が朱全忠と修好しようと図って、襲吉は朱全忠に送る手紙を書くよう命じられた。朱全忠はこれを見て、「毒手尊拳」の句に感心したが、「馬邑児童」と「陰山部落」の句に怒った。襲吉は文才によって当時の敬翔馬郁李巨川・鄭準・羅隠李山甫と名声を等しくした。天祐3年(906年)6月、風病のため太原府で死去した。後唐同光2年(924年)、礼部尚書の位を追贈された[4][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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