王珂

From Wikipedia, the free encyclopedia

王 珂(おう か、生没年不詳)は、末の軍人河中節度使。小字は忠児[1][2]、または蟲児[3]本貫太原府祁県[4]

経歴

潼関防禦使の王重簡の子として生まれ、王重簡の弟の王重栄の養子となった。光啓3年(887年)、王重栄が殺害され、兄の王重盈が河中節度使となると、王珂は河中行軍司馬となった。乾寧2年(895年)、王重盈が死去すると、王珂は河中の軍に推されて留後となった。王重盈の子の陝虢節度使王珙絳州刺史王瑶が王珂の継承に異を唱えて、宣武軍節度使の朱全忠の支援を求めた。これに対して王珂は河東節度使の李克用の支援を求めた。李克用は王珂を朝廷に推薦した。王珙は王行瑜李茂貞韓建の3節度使と結び、3節度使は王珙を河中節度使に推薦した。李茂貞ら3節度使が長安に乱入すると、朝廷により河中節度使の任は王珙に与えられた。王珙と王瑶は河中の王珂を攻撃した。李克用は怒り、出兵して3節度使を討った。王珙と王瑶は兵を退いた。李克用は絳州を攻め落とすと、王瑶を斬り、渭北に軍を宿営させた。王珂は昭宗により検校司空・河中節度使に任じられ、供軍糧料使をつとめた。王珂が自ら太原府に赴くと、太原県令の李嗣昭が兵を率いて王珂を助け、王珙を攻撃した。王珙は連戦連敗し、人心も離反していった。光化2年(899年)6月、王珙は部下に殺害された[3][5][6][2]

光化3年(900年)、朱全忠が鎮州定州を平定すると、兵を西に向けようと図っていた。ときに劉季述が昭宗を廃位し、長安は大混乱に陥った。崔胤は昭宗復位のために朱全忠に軍の出動を要請した。朱全忠はこれを河中を攻略する好機とみて、その部将の張存敬らに兵数万を与えて黄河を渡らせ、含山から王珂の不意を突いて進出させた。光化4年(901年)1月、汴州の兵が晋州と絳州を攻撃した。王珂の将の絳州刺史陶建釗や晋州刺史張漢瑜には防戦の備えがなく、即座に開門して降った。朱全忠は別将の何絪に命じて晋州を守らせた。2月、張存敬の軍が河中に迫ると、王珂は李克用に救援を求める使者を送ったが、晋州・絳州を抑えられて、李克用の援軍は進むことができなかった。さらに王珂は李茂貞の出兵を求めたが、李茂貞は応じなかった[7][8][9][10]

王珂は追いつめられて、黄河を渡って長安の朝廷に帰参しようとしたが、ちょうど河橋は壊れており、舟で渡ることもできなかった。王珂は朱全忠が来たら降伏するといって、軍を退くよう張存敬に求めた。張存敬はその日のうちに軍を退いた。3月、朱全忠が洛陽からやってきて、王重栄の墓に参拝すると、王珂は自身を縛って、羊を連れて朱全忠に面会しようとした。朱全忠が亡国の礼で会うには及ばないと伝えたため、王珂は路上で出迎え、朱全忠の手を握って泣いた[11][12][9][13]

張存敬が河中を守備することとなり、王珂は一家ごと汴州に移された。のちに王珂は朱全忠に入朝を命じられ、その道中に華州の伝舎で殺害された[14][15][9][13]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI