李譲夷
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元和14年(819年)、進士に及第し、節度使の属官を初任とした。大和2年(828年)、長安に入朝し、右拾遺となった。翰林学士をつとめ、左補闕に転じた。大和3年(829年)、職方員外郎・左司郎中を歴任した。大和9年(835年)、諫議大夫に任じられた[1][2]。
開成元年(836年)、譲夷は諫議大夫のまま知起居舎人事を兼ねた。開成2年(837年)、中書舎人に任じられた[1][3]。
李徳裕が政権を握ると、譲夷は抜擢されて工部侍郎・戸部侍郎を歴任した[1]。尚書右丞となり、御史中丞を兼ねた。会昌2年(842年)、中書侍郎に任じられ、同中書門下平章事(宰相)となった[4]。会昌4年(844年)、検校尚書右僕射となり、中書侍郎を兼ねた[5]。会昌6年(846年)4月、司空となり、門下侍郎を兼ねた。7月、検校司空・同平章事・淮南節度使となった[6]。大中元年(847年)、病のため長安に帰りたいと願い出て、道中に死去した。司徒の位を追贈された[3]。
家族
- 曾祖父:李練
- 祖父:李悦(密州録事参軍)
- 父:李応規(衛尉寺少卿)
- 妹:李勝才
- 子:李格(秘書省秘書郎)
- 孫:李凝