李頃
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文徳元年(888年)、李頃の父の李罕之は河南尹の張全義に敗れて、河東節度使の李克用に降った。李罕之は沢州に赴任し、李頃は人質として太原府に留められた。李頃は李存勗の遊び仲間であった。光化元年(898年)、李罕之が潞州を襲撃して拠り、朱全忠と結ぶと、李頃は李克用に殺されそうになったが、李存勗に駿馬を与えられて汴州に逃亡することができた。天復3年(903年)、朱全忠が昭宗を鳳翔府から長安に送り届けると、軍1万人を留め、朱友倫と李頃に宿衛を名目にその軍を統率させた。朱全忠が哀帝に禅譲を迫ると、李頃は禁兵を管掌し、側近として頼られた[2][4]。
後梁の乾化2年(912年)、朱友珪が即位すると、李頃は検校尚書右僕射・右羽林軍統軍に任じられた。乾化3年(913年)、末帝朱友貞が朱友珪を殺害するにあたり、李頃はその謀に参与した。ほどなく随州刺史として出向した。のちに入朝して右羽林軍統軍となり、澶州刺史として出向した[2][4]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗李存勗が開封府に入ると、李頃は召し出され、衛州刺史に任じられ、光禄大夫・検校太保を加えられた。明宗のとき、衍州刺史に任じられた。長興年間、検校太傅・右神武軍統軍となった[2][4]。清泰2年(935年)、左衛上将軍から左領軍衛上将軍となった[5]。清泰3年(936年)、華清宮使となった[6]。
後晋の天福2年(937年)、李頃は特進・検校太尉・右領軍衛上将軍を加えられた。天福3年(938年)、開国伯に進封された。天福5年(940年)、左領軍衛上将軍に転じた[7][4]。天福6年(941年)、病没した[8]。享年は70。太師の位を追贈された[9][10][4]。