李龍範
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慶尚南道昌原郡東面の貧しい家の出身で、シングルマザーの下で育った。金海郡進永邑に移住した後、1923年、19歳の時に九州に渡り、炭鉱作業員を20年間勤めてきた。その後は朝鮮に帰国し、10数年だけで江原道を中心に鉱山40ヶ所を取得した。解放後は500万ウォンの資金を投じて大同工業を設立し社長を務め、進駐した米軍関係の土建業を独占して経営したため、巨富を築いた。さらに、朝鮮戦争の時は撤退した土建業者から資材を買い集めて、終戦後に全韓国の災害復旧施設の半数を担当した。そこで副統領の李起鵬と親しい関係を築き、政界入り後は莫大な財産を自由党の党費に投入したため、1954年の第3代総選挙と1958年の第4代総選挙で当選し、自由党所属の国会議員を2期連続務めた。その間は自由党慶尚南道党委員長・中央委員を務めたが、4・19革命以降は政界を離れた。教育分野では私財を投じて昌原で大山高等学校、昌原中学校、昌徳中学校、鎮田中学校などを設立し、大同育英会理事長、昌原学院理事長、釜山東州中高等学校財団理事長を務めた[2][3][4][1][5]。
5・16軍事クーデター以後、不正蓄財や第4代総選挙の際、昌原郡乙選挙区で無投票当選するために対立候補の薛灌洙の登録を妨害したなどの罪状により無期懲役が求刑された[6]。1962年1月20日の革命裁判では懲役10年の判決を受け[7]、1962年3月31日に上告が棄却され、原審判決が確定した[8]。その後、1963年5月8日に5・16恩赦により出所した[9]。
エピソード
政治家として理論的な裏付けはないが、快活で非凡な性格の持ち主で自由党慶尚南道党を左右した時期もあり、自由党の强硬派の大多数を掌中に入れて動いたほど力が大きかった[3]。
脚注
- 1 2 “이용범(李龍範) - 부산역사문화대전”. busan.grandculture.net. 2026年3月1日閲覧。
- 1 2 “대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2026年3月1日閲覧。
- 1 2 “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2026年3月1日閲覧。
- ↑ “근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2026年3月1日閲覧。
- ↑ “李議員 表彰式 擧行” (朝鮮語). 부산일보 (1957年4月22日). 2026年3月1日閲覧。
- ↑ “李龍範(이용범)에無期求刑(무기구형)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1962年1月11日). 2026年3月1日閲覧。
- ↑ “前中將(전중장) 白仁燁(백인엽)에 無期懲役(무기징역)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1962年1月23日). 2026年3月1日閲覧。
- ↑ “韓光錫(한광석) 李龍範(이용범) 懲役(징역)10년確定(확정)”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1962年3月31日). 2026年3月1日閲覧。
- ↑ “政治犯百(정치범백)18名特赦(명특사)”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1963年5月8日). 2026年3月1日閲覧。
- ↑ “京鄕(경향)가이드”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1968年7月22日). 2026年3月1日閲覧。