李起鵬
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漢城出身。延喜専門学校(現:延世大学校)を中退して、宣教師の通訳になって渡米し、アメリカアイオワ州のデイバー大学(現・アイオワ大学)を卒業。卒業後、ニューヨークで許政などと共に『三一新報』の発刊に参加した[2]。
1934年に帰国して、1945年に米軍政庁軍政裁判長の通訳を務め、後に初代大韓民国大統領になる李承晩の秘書として政界入りし、1948年には大統領秘書室長、1949年にはソウル特別市長に就任した。1951年の国民防衛軍事件で申性模国防部長官が解任されると、国防部長官になった。同年に自由党を創党して、1954年には四捨五入改憲を主導する程権力を握る様になり、この頃から彼の邸宅は「西大門景武台」とまで揶揄される様になった[2]。
1960年に、不正選挙を通じて副大統領に当選したが、四月革命で失脚し、景武台(現:青瓦台)に身を避けたが、長男の李康石(陸軍将校で李承晩の養子になっていた)の手によって、朴瑪利亜夫人や次男(李康旭)とともに射殺された(長男も自決した)。李起鵬一家の邸宅は、一家無理心中後に政府に還収され、跡地に「4·19革命記念図書館」が建設された。
なお、1950年代初頭に大韓体育会長、大韓オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会委員、仁荷工科大学理事長を務めたこともある[2][3]。