村上信清 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期生誕 天文17年(1548年)[1]死没 寛永3年4月11日(1626年5月6日)[1]別名 左衛門[2] 凡例村上 信清時代 戦国時代後期 - 江戸時代初期生誕 天文17年(1548年)[1]死没 寛永3年4月11日(1626年5月6日)[1]別名 左衛門[2]戒名 双弘[1]墓所 東光院[1]幕府 江戸幕府主君 徳川家康、秀忠、家光氏族 信濃村上氏父母 父:村上成清[2]兄弟 信清、勝行遠[1]子 川勝重氏の妻、清政、川勝重氏の後妻、石巻康元の妻、男子[1]テンプレートを表示 村上 信清(むらかみ のぶきよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。 系譜によれば信濃村上氏の一族。祖父の代より上総国久留里城に住んで古河公方・小弓公方に属し、小弓公方滅亡後は里見氏に従ったという[2]。天文23年(1554年)後北条氏の攻撃で父・成清が敗死する。この時、真勝寺の清心法印がまだ幼い信清・行遠兄弟を助けて城を落ち延び、兄弟は安房国に走った[2][3]。 後年上総に帰り、天正18年(1590年)小田原征伐の陣中で徳川家康に仕官、上総国内に300石を知行する。当初は井伊直政に属した。弟の行遠が家老を務めていた縁で里見義康への使者を務め、功があった[2]。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いののち、武蔵国橘樹郡長尾・上作延・下作延に200石を加増[1][4]。寛永3年(1626年)77歳で死去[1]。 脚注 [脚注の使い方] 出典 1 2 3 4 5 6 7 8 『寛政重修諸家譜』, pp. 260–261. 1 2 3 4 5 『寛政重修諸家譜』, p. 260. ↑ 『神奈川県史 資料編』, p. 73. ↑ 『大田南畝全集』, pp. 604–605. 参考文献 神奈川県企画調査部県史編集室 編『神奈川県史 資料編』 8巻、神奈川県、1976年。 濱田義一郎 編『大田南畝全集』 17巻、岩波書店、1988年。ISBN 978-4-00-091057-6。 『寛政重修諸家譜』 8巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0212-3。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 Related Articles