村井茂兵衛

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四代目村井 茂兵衛(むらい もへえ、文政4年5月11日1821年6月10日) - 明治6年(1873年)5月)は、旧盛岡藩豪商。名は京助[1]屋号鍵屋鍵屋茂兵衛とも。尾去沢銅山事件で財産を没収された。

尾去沢銅山事件

村井家は紀伊国出身であり、慶長7年(1602年)に奥州の三戸城城下に移り、享保2年(1717年)に盛岡紺屋町1丁目に移して呉服太物を扱う店として、屋号を鍵屋とした[1]。当主は代々茂右衛門を称していたが、後に茂兵衛を称するようになった[1]。父である二代目茂兵衛(快助)は和田屋宮川善助の子であったが、村井家の養子となり、盛岡藩に仕え、300石をあたえられた[2]。文化6年(1809年)に苗字帯刀を許され、文化13年(1816年)に盛岡藩の御用達となっている[3]。その子京助は小姓・勘定役・厨川通代官を経た後家業に専念することになる[2]。尊王攘夷運動にも共鳴しており、盛岡を訪れた吉田松陰と面会したのは京助一人であったという[3]。その後、佐幕派であった藩当局によって逼塞を命じられたが、この際に父茂兵衛が没したため、子の東一郎が三代目茂兵衛を相続した[3]。慶応3年(1867年)秋、東一郎の死去に伴い、4代目村井茂兵衛の名を継ぐ[3]


慶応4年1月11日(1867年12月)、茂兵衛は藩に対する7万両の献金の代償として、尾去沢鉱山(尾去沢銅山)の経営権を譲り受けた[4]。明治元年12月(1869年1月)、戊辰戦争で新政府軍に降伏した盛岡藩は、一時白石に転封された。この際に政府から尾去沢銅山の経営権を認められている[5]

盛岡藩は明治2年7月22日(1869年8月29日)に盛岡に復帰した。この際に政府は盛岡藩に70万両の上納を命じた[6]。盛岡藩は英国商人オールト商会からの借金を上納金の一部としようとしたが、この資金を上納することは問題があるという政治的判断により、一旦この借入金を茂兵衛に貸し付けた上で、事業収入の利子を得ようとする方針を取った[7]。しかし藩の大阪詰勘定奉行川井清蔵は、政府からの嫌疑を恐れ、この借金自体を茂兵衛個人が行ったように偽装させた[8]。しかしこの偽装はまもなく発覚し、川井は50日、茂兵衛は40日の押込処分を受けた[9]。また盛岡藩はその他にも度々茂兵衛に借金を依頼しており、茂兵衛は藩から「貸下」という名目の「借入」を受けることになった。この総額は明治4年4月(1870年6月)の段階で8万4000両に及ぶ[10]。また藩の圧力が加わり、オールト商会の借金返済義務も茂兵衛が背負うことになった。明治3年9月13日(1870年10月7日)には、オールト商会からの借金を「家産ヲ傾ケ候テモ尽力」して返済すると茂兵衛が述べたという達が藩から下されている[10]

明治4年(1871年)、廃藩となった盛岡藩と茂兵衛との貸借を調査した大蔵省は、藩からの「貸下」を文字通り解釈し、鍵屋が盛岡藩から借金をしていると認定し、オールト商会からの借金の残額と合わせた3万6000円の即時返済を求めた[11]8月28日、採掘権などの私有財産の差押さえを受け、茂兵衛は異議を申し立てたが裁断は覆されなかった。明治5年(1872年)3月25日、茂兵衛は尾去沢銅山を大蔵省が即時上納金の支払いを代償に買い上げることを申請させられる自体に陥った[12]。しかも銅山は大蔵大輔(大蔵次官)だった井上馨の知人の商人、「伊勢平」こと岡田平蔵に破格の条件で払い下げられた[13]。この件について茂兵衛は諦めずに秋田裁判所に訴え出たが却下された。明治6年(1873年)2月には司法省裁判所に訴え、司法省による調査が開始された[14]。しかし茂兵衛は胃潰瘍となって衰弱し、明治6年(1873年)6月10日、大阪で失意の中で死去した[15]。茂兵衛の没後は子の五代目茂兵衛が継ぎ、尾去沢銅山の返付や補償を求める運動を行ったが、成功しなかった[16]

茂兵衛の調書や上申書は、『井上馨関係文書』の中の裁判関係資料として遺されている[17]

脚注

参考文献

小説

外部リンク

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