天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、白山林(現・名古屋市守山区)での戦闘に参加し奮戦したと伝わる。
その後、後に小西行長に仕え、天正17年(1589年)に天草種元・大矢野種基・上津浦種直・栖本親高ら五人衆全てが反乱を起こした(天草国人一揆にも武功を挙げたと伝わっているが。
一方で天正20年(1592年)6月の「御人数備之次第」で秀次家臣として名が記され、翌文禄3年(1594年)1月の「家臣書上」においても異動なく同位置にとどまっている。
また、文禄3年(1594年)1月26日には「御参」に伴う京都市中の辻々の警固を担当し、烏丸光宣邸前の警備責任者として佐野十郎右衛門とともに奉行の指示を受ける役目を任じられた。
一方、秀次事件の際には「播州村善右衛門尉妹」とされる35歳の女性「右衛門のかう」が処刑されており、その辞世は「とても行みだの御国へいそげただ御法の船のさをなぐるまに」と伝わる。
なお、軍記物『武功夜話』では「村瀬善右衛門」として登場し、白山林で徳川方の岡部長盛に討たれたという異伝もある。