栃木県足利郡富田村、村田平吉の二男。1915年(大正4年)上京し、麻布にあった友野鉄工所に入社[1]。ここに出入りしていた勝精伯爵と知り合い、機械好きの伯爵が邸宅敷地内に設けた工場を任される。同所は村田鉄工所と呼ばれ、村田は実質的な工場長として活動して1923年(大正12年)に排気量1000ccのジャイアント号を完成させた。しかし、この頃にはオーナーであった勝の興味が薄れ、鉄工所が事実上解散状態になったことから、1924年(大正13年)に同所のメンバーらと目黒製作所を設立し独立する。以後、同製作所で社長として辣腕を振るった。
目黒製作所のオートバイは、村田の意向で積極的にオートレースに参戦した。メグロの車両は戦前から戦後まで活躍し、知名度を高めたが、大排気量で重い車体は徐々に敬遠され始め、目黒製作所の業績は徐々に低迷。村田は会社の命運を見届けることなく1961年(昭和36年)3月29日に死去した。