友野直二
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生い立ち
東京麻布区飯倉にて友野釜五郎とその妻・芳の子として1889年(明治22年)12月6日に生まれる[1][2]。父は固山備前介宗次の門下、義国の名を持つ元刀鍛冶で、近代日本における理髪バサミ製作の先駆者[3]。父は鋏を造るために発動機を使用していたが、故障ばかりで困っている姿を見ていたのが発動機開発を志した要因の一つであったと直二は後に語っている。
1901年に臨川小学校を卒業し、1909年(明治42年)には後の東京工業専修学校を卒業。同年12月に神田多町でオートバイを取り扱っていた山田輪盛館に入る。僅か10日程の在籍であったが交友は後まで続いた[注釈 1]。また翌年は中央大学の外国語専修科でも学び、卒業後は日本蓄音機にも一時在籍している[4]。
1911年(明治44年)7月、麻布区広尾町に友野鉄工所を設立し独立。翌1912年7月に自作の発動機(エンジン)第一号を完成させた[注釈 2]。
飛行機用発動機の開発
1914年(大正3年)8月、帝国飛行協会の募集に応じて飛行機用発動機の製作に挑戦。上野図書館へ通って資料を集め、ダイムラーのものを参考として1916年(大正5年)5月に水冷六気筒九十馬力発動機を完成させた[注釈 3]。鳥飼繁三郎の口利きでまだ無名だが熱意ある青年飛行家・玉井清太郎と出会うと、この発動機を無償で提供[6]。一緒に日本飛行機製作所を立ち上げた[注釈 4]。当時民間航空家が集まっていた千葉県の稲毛海岸にも顔を出し、玉井をはじめ伊藤音次郎らにも知られるようになる[8]。また飛行雑誌の記者として顔見知りだった相羽有を玉井に引き合わせたのも直二であり、2人の出会いから日本飛行学校が生まれた[9][10]。
船舶用発動機に取り組む
その後は船用発動機に力を入れる。漁業関係者に意見を求め、灯油が使えて取扱いが簡単、そして耐久性の高い漁船用3.5馬力電気着火機関を開発。これは実用新案に登録され、1917年(大正6年)4月より量産体制に入る。同年9月に川名とみ(1899年生)と結婚[注釈 5]。翌1918年麻布区木村町に建てた新工場に移転すると、家族と共にその二階に住んで仕事漬けの日々を送った[12]。
以後も次々発動機の改良を重ね業績も伸び、船用電着機関メーカーとして業界に確固たる地位を築いた友野鉄工所は、1922年(大正11年)福岡と台湾に出張所を設けた。また同年、友野の従業員である村田延治が勝精伯爵邸敷地内の工場責任者として招かれる。もともと直二と勝精は機械好き同士で親交があり、同年11月には勝の所有船で仲間数人と共に遭難寸前となる経験もしている。昭和初期には東京や神戸、朝鮮など各地の博覧会に発動機を出品し入賞。1930年(昭和5年)に農林省認定工場となった[13]。
1931年(昭和6年)3月には昭和天皇が葉山御用邸で海洋生物研究の資料収集に利用する御座船・三浦丸用に発動機の用命を受け、16馬力電着機関を納入[14]。翌1932年3月に帝国発明協会主催の発明博覧会で有功章を受章する。1933年(昭和8年)芝区西芝浦に工場を新設し移転。会社を法人化し、株式会社友野鉄工所を設立した。同年11月、麻布区会議員に選出[注釈 6]。1934年(昭和9年)に販路拡張のため朝鮮から満州、中華民国を視察している。
1936年(昭和11年)6月には東京府会議員に、1942年(昭和17年)5月には東京市会議員に選出。また1943年7月に東京が都となると、同年9月に実施された第一回東京都議会議員選挙にも出馬し当選している[1]。
1944年(昭和19年)6月、支那事変に際し私財を寄付したことをもって直二は紺綬褒章を下賜される[16]。1945年(昭和20年)5月25日の大空襲で、羽田、北品川、西芝浦、高浜にあった各工場が全て焼失[17]。従業員三千人を擁した友野鉄工所は第二次大戦終戦後に規模を縮小しての再開となる[1]。友野家は八王子、原町田、戸塚や千葉県下に広大な土地と建物を持っていたが、戦後の財産税と富裕税の課税や農地法の改正などにより多くを手放している[18][注釈 7]。
1948年(昭和23年)には御座船用発動機の再度の用命を受け、無事納入。同年11月、業界二団体が合併し、新たに発足した社団法人・日本舶用発動機会の副会長に就いた[20]。1951年(昭和26年)4月に大日本水産会より水産功労者として表彰[1][注釈 8]され、1967年3月には勲五等双光旭日章を受章[22]。1969年(昭和44年)1月16日、港区麻布田島町の自宅で病没。19日に青山斎場で社葬が執り行われた[23]。
脚注
注釈
- ↑ 旋盤工の長沢基一と板金工の田中八五郎とは兄弟同然の付き合いとなり、田中とは共に中央大学へ通った。
- ↑ 外国製のものを参考に船用2馬力ガソリン式発動機を作製。既成の新品など無い時代だったのでプロペラもピストンリングも部品から自作した[5]。1915年には同じく船用に25馬力V型複筒ガソリン式発動機を完成させ、これを熊本県三角港の運搬船に取り付けている。
- ↑ 応募者は22名。うち実際に発動機提出までたどり着いたのは直二を含め5名。直二は飛行協会の設定した期日に僅かに遅れての提出であったが審査を受けることが出来た。実働試験では60馬力程度を示して1時間40分ほど動作したところで不調を生じ停止となっている[6]。ちなみにこの時に4時間稼働し一等を取ったのは、日本初の国産オートバイを造ったことで知られる島津楢蔵作製の発動機。
- ↑ 日本飛行機製作所は当初麻布の友野鉄工所内とされ、日本飛行学校設立時に学校隣の建物へ移った[7]。中島知久平の同名製作所とは別。
- ↑ 長男・直久、二男・尚文、三男・工司、長女・和、二女・妙子を授かる[11]。
- ↑ 1937年12月には麻布区会議長に選任された[15]。
- ↑ 納税のため株券も一部売りに出したことで、直二は友野鉄工所の代表権を喪失。息子3人は1953年に設立した友野工業の代表及び役員を務めた[19]。
- ↑ この時の表彰式には高松宮宣仁親王が臨席、直二らと共に会食している[21]。
出典
- 1 2 3 4 記録 1962, pp. 98–102.
- ↑ 国立国会図書館収集整理部 編『国立国会図書館著者名典拠録:明治以降日本人名』 下巻、紀伊国屋書店、1979年4月、2631頁。NDLJP:12189845/559。
- ↑ 岡本誠之『鋏』えくらん社、1959年、156頁。NDLJP:9543591/93。
- ↑ 記録 1962, pp. 19–21.
- ↑ 記録 1962, pp. 23–25.
- 1 2 平木国夫『暁の空にはばたく:いのちを賭けたヒコーキ野郎たち』読売新聞社、1970年、69-70頁。NDLJP:12062864/40。
- ↑ 『日本航空機総集』 第8巻 (九州・日立・昭和・日飛・諸社篇)、出版協同社、1980年10月、151頁。NDLJP:2527168/78。
- ↑ 平木国夫『暁の空にはばたく:いのちを賭けたヒコーキ野郎たち』読売新聞社、1970年、64頁。NDLJP:12062864/38。
- ↑ 『日本の「創造力」:近代・現代を開花させた四七〇人』 第13巻 (瓦礫からの再出発)、日本放送出版協会、1993年9月、439頁。NDLJP:13248245/121。
- ↑ 東京都大田区史編さん委員会 編『大田区史年表』 下巻、東京都大田区、1979年3月、235頁。NDLJP:12195114/227。
- ↑ 『大衆人事録』(第16版 全国篇)帝国秘密探偵社、1953年、694頁。NDLJP:3025554/411。
- ↑ 記録 1962, pp. 29–33.
- ↑ 記録 1962, p. 50.
- ↑ 友野直二 著、松田素風 編『発動機と寝起き六十年:友野直二の記録』発動機と寝起き六十年刊行会、1962年、52-54頁。NDLJP:2496745/36。
- ↑ 記録 1962, p. 69.
- ↑ 大蔵省印刷局 編『官報』第5237号、431頁、1944年6月30日。NDLJP:2961739/8。
- ↑ 記録 1962, pp. 77.
- ↑ 記録 1962, p. 82.
- ↑ 『帝国銀行・会社要録』(第38版)帝国興信所、546頁。NDLJP:8798237/760。
- ↑ 『日本漁船発動機史』日本舶用発動機会、1959年、213頁。NDLJP:2489168/115。
- ↑ 記録 1962, p. 80.
- ↑ 『運輸公報』第909号、運輸省大臣官房、128頁、1967年4月11日。NDLJP:9645922/13。
- ↑ 『漁船機関』45 (508)、漁船機関技術協会、1969年2月、78頁。NDLJP:3288170/41。