村田正雄 (初代)
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グレゴリオ暦 1871年3月25日(天保暦 明治4年2月4日)、東京府芝(現在の東京都港区)に「村田又彦」として生まれる[2]。
横浜貿易商組合立横浜商業学校(現在の横浜市立大学商学部)を卒業する[1]。1895年(明治28年)ごろの24歳のとき、横浜・港座で『色と慾二股桜』に出演して初舞台を踏む[1][3]。舞踊については森間藤蔵を師とし、義太夫については、鶴沢友次郎に学んでいる[3]。
1901年(明治34年)、高堂国典が村田の門下となる。1902年(明治35年)、福井茂兵衛の京都・南座での改良演劇に参加する。のちに伊井蓉峰を主宰とする「伊井容峰一座」の組織に尽力[3]、同劇団では脇役に徹し、重厚な役柄を演じた[1]。
満39歳を迎える1910年(明治43年)前後、東京の吉沢商店の目黒撮影所が製作する映画に出演、多くに主演した[4]。同社は1912年(大正元年)に他の3社と合併して日活となり、1913年(大正2年)10月に日活向島撮影所を開所すると、村田は藤沢浅二郎とともに『八重欅』に出演した[5]。1917年(大正6年)には、山川吉太郎が経営する山川興行部で主演、同年、山川が小林喜三郎とともに設立した天然色活動写真(天活)の大阪撮影所製作の映画に主演した[4]。この年、村田の一座に女形の明石緑郎が入門している[6]。
1925年(大正14年)6月7日、死去した[1]。満54歳没。最後の舞台は『金色夜叉』であった[3]。村田の没後、甥に当たる村田高一が名跡を継ぎ、「二代目村田正雄」を襲名した[1]。第二次世界大戦後、特撮等で知られるのは二代目である。