村田近重は、1441年(嘉吉元年)結城城が落ちた後(結城合戦)、常陸国から陸奥国柴田郡村田郷に来住した小山大膳大夫九郎業朝を祖とする村田氏6代目。
村田氏は小山氏族の庶流であり、柴田郡の村田城の城主であったが、6代近重の代に、急速に勢力を拡大していた伊達稙宗の傘下に入った。
1535年(天文4年)3月の「棟役日記」(御むねやくの御日記。伊達家文書137号。農民の家屋敷すなわち在家に賦課される棟役つまり棟別銭の台帳であり、郡庄ごとに棟別銭の集計が記載されている)にはなかった「村田殿」の記載が、同7年9月3日の「段銭帳」(御段銭古帳。田畑に賦課された税の貫高の台帳である)に登場するので、天文5年頃に、村田近重が伊達家に仕えるようになったものと推認できる。段銭帳によると、近重の所領は、中名生・成田・上川名・支倉・足立の百八貫七百文、村田郷の二十五貫八百四十二文、合計百三十四貫五百四十二文であったとされている(村田町史206p参照)。
1542年(天文11年)6月、陸奥国守護桑折西山城主伊達稙宗は、嫡子晴宗のために西山城内に幽閉され、小梁川宗朝によって救出された。この父子の争いはたちまち南奥羽の諸家を巻き込む大乱(伊達家天文の乱)になったが、天文17年(1548年)頃晴宗が勝利する形で和解した。天文の乱では、村田近重は伊達家14代稙宗の九男宗殖(一郎、萬好齋)とともに、晴宗側に味方している。晴宗は、1553年(天文22年)正月17日家中の諸氏に天文の乱中の判物を破棄して新たな花押による判物を一斉に交付し、以降はこれに拠るべきことを宣言した(「晴宗公采地下賜録」奥書)。
村田近重と伊達宗殖の両名に対しては、晴宗は次の判書を与えた。「上足立、下足立、下川名、支倉、成田、中名生の六郷から納められる段銭は前のごとく与え、加恩としてこの六郷の棟役も与える。柴田の庄、上足立の郷の内、留守氏の領地であるつちうりを除くその他の地は芦立小太郎分として与えるが、村田近重と一郎とでこれを後見し、小太郎に不都合の事があったらこの土地を取り上げて村田氏に与える。また、柴田の庄、下川名郷を返し与える。支倉の内、金田、古屋敷のほかに、支倉新兵衛方から出される年貢、五貫文を与える(村田町史210p) 。
ところで、伊達宗殖(一郎)が近重の娘と婚姻し、村田氏の跡継ぎとなった時期については1565年(永禄8年)とする説があるが、采地下賜録には近重と一郎の両名宛に判物が交付されているので、その頃には既に一郎は近重の跡継ぎになっていたとすべきであるから、その時期は1553年以前であろう。また、この婚姻によって村田近重と一郎は伊達家の一家・一族の制の一家の家格になったと考えられる。
1576年(天正4年)8月、輝宗が相馬氏と伊具郡において戦った際には、村田近重は1番亘理重宗から17番旗本という軍陣構成中の9番隊長として、伊達輝宗に諸人一致のため連判誓詞を出し(性山公記録巻の三)、伊具郡金山の戦闘で功を上げている。
ところで、近重が死亡した時期は判然としないが、1576年(天正4年)8月に作成された連判誓詞には村田九郎の名前があるから、それ以降ということになろう。