1533年(天文2年)、伊達氏14代当主・伊達稙宗の九男として誕生。伊達氏15代当主晴宗の弟、17代当主政宗の大叔父。一家。
宗殖は村田紀伊守近重の娘と婚姻し、村田氏を継嗣した。その時期について永禄8年(1565年)とする説があるが、それより前の天文22年の晴宗公采地下賜録には近重と一郎の両名宛に領地等が与えられていることからして、1553年(天文22年)以前とすべきである。
村田氏は小山氏族の庶流であり、柴田郡の村田城の城主であったが、天文5年ごろに、村田近重の代に伊達家に仕えるようになった。その時期は、1535年(天文4年)3月の棟役日記に記載されていなかった「村田殿」との記載が、1538年(天文7年)9月3日の段銭帳に登場しているので、天文5年頃と推認できる。
1536年(天文5年)4月、「伊達氏御成敗式目塵芥集」が制定公布されているが、1679年(延宝7年)、村田親重(宗国次男。村田家別家・召出一番座)が第4代藩主伊達綱村に塵芥集(村田本)を献上している。
1576年(天正4年)8月、輝宗が相馬氏と伊具郡において戦った際には、村田紀伊守近重は1番亘理重宗から17番旗本という軍陣構成中の9番隊長として、連判誓詞出した上、宗殖とともに出陣している。
1588年(天正16年)、政宗の正室である愛姫の父である田村清顕には男子がなかったので、清顕が没すると田村家中はそれぞれ姻戚関係にある伊達氏と相馬氏の勢力争いで分裂し、この機に乗じて相馬義胤が三春入城を策したが田村家中も応戦して押し返し、義胤の企ては失敗した。その後政宗は三春城に入城して相馬派を一掃し、9月18日米沢城に帰還した。
万好齋が長期にわたって相馬境の警護をしていたので、政宗は同年9月25日、萬好齋を慰労するとともに、来月中には引き上げるようにとの御書を発行している。萬好齋は同年11月4日、大條尾張(宗直)、猪苗代甲斐等(猪苗代弾正盛国の一族)と米沢城に参上し、政宗に拝謁した。同月9日朝には政宗から御茶を賜っているが、これには松雲軒、以休齋(片倉)も相伴している。同月20日には萬好齋が政宗に宮城郡国分産の若い黄色の鷹を献じている(貞山公治家記録)。
天正18年、豊臣秀吉は小田原北条氏を降ろすと奥州仕置きを行い、1591年(天正19年)8月頃には、秀吉による国替えが決まったので、9月23日、政宗は岩出山城に入る。
同年9月25日、所替えに伴い米沢から岩出山へ向かっていた政宗の側室・飯坂の局は、陸奥国柴田郡にある萬好齋居城の村田城で長男兵五郎(のちの宇和島初代藩主秀宗)を産み、1593年(文禄2年)岩出山城に移るまでの2年間萬好齋居城で兵五郎を育てた。ところで、同年12月22日付け伊達政宗書状(万好齋宛)には、「万好家中 長井居住の者供、横山へ入 木きる事 不可有違乱者也」とあるところ、この書状は、万好齋が飯坂の局らの警護等のために一部の家臣団とともに村田城に残り、他の家臣団は所替えのために永井に移っていたことから、永井居住の家臣団のために発行されたものと考えられる。
兵五郎は1594年(文禄3年)、政宗に伴われて豊臣秀吉に拝謁し、秀吉に人質として差し出されることになり、秀吉の猶子となり秀宗と名乗り、伏見城で養育された。正宗の正室・愛姫には男子がなかったため、嫡子である忠宗が1600年(慶長4年)に生まれるまで「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた。
宗殖も所替えにより桃生郡の永井館主となり、1596年(慶長元年)8月26日、63才の生涯を終えた。宗殖には男子がなく、没後梁川城主であった宗殖の兄である伊達宗清(鉄斎)が政宗の正室である愛姫を経て政宗の許しを請い、宗清次男宗友(なお、宗清長男宗直は白石家を継嗣している)が宗殖次女と婚姻し、村田氏を継嗣した。
そのあとは、宗国-宗継-棟向(大番頭)-殖興-殖継-成殖(大番頭)-盛殖(大番頭)-幸殖-寧殖-教殖(大番頭、若年寄)と継いだが、明治維新になり永井に帰隠した。その後は蕃殖-顕殖-殖孝-文秋-殖昭と継ぐ。