村野常右衛門
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武蔵国多摩郡野津田村[11](後の東京府南多摩郡鶴川村[5][10]、現在の東京都町田市域)生まれ。地主・村野常右衛門(4代目)の長男[1]。生家は代々農業を営んでいた[6]。
明治元年(1868年)に父が死去し、明治2年(1869年)に家督を相続し常右衛門(5代目)を襲名。幼い頃から学問を好み[6]、大谷村(現・町田市南大谷)の清水塾、野津田村の智新学舎、真下晩菘の融貫塾、耕余塾で学んだ[12]。漢学を修めた[6]。農業を営んだ[10]。
1878年5月、結社責善会の結成に参加[13]。1880年9月、野津田村戸長となり[6]、南多摩郡政の刷新に取り組む。1881年6月、神奈川県会議員選挙において、南多摩郡役所が選挙人名簿の調製を怠り有権者を誤った状態で選挙を執行したことを追及し、佐藤俊正郡長を辞職に追い込んだ。郡政刷新の目的を果たした村野は、翌月戸長を辞職した[1][14]。
1881年11月、石坂昌孝らと政治結社「融貫社」を結成し自由民権運動に加わる。1882年7月、融貫社を解散して自由党に入党した[1][15]。1883年5月、野津田村に文武館凌霜館を設立し青年民権家の育成に取り組む[16]。1885年、大井憲太郎の朝鮮革命計画に加わるが、計画が発覚し(大阪事件)逃亡後、1886年1月、横浜警察署に自首した。1887年9月、大阪臨時重罪裁判所で軽禁固1年・監視10か月の第一審判決を受け和歌山監獄に収監された。1888年9月、刑期を終えて出獄した[1][17]。
1889年4月、鶴川村会議員に選出され[6]、同年11月、神奈川県会議員補欠選挙に当選し1891年2月に辞任[1][18]。1898年8月、第6回衆議院議員総選挙に東京府第13区で憲政党から出馬し当選[19]。以後、第13回総選挙まで連続8回の当選を果たした[20]。立憲政友会院内幹事を経て、1913年、幹事長に就任[1]。第一次憲政擁護運動では立憲国民党と連携し、桂太郎内閣倒閣運動を指揮した。
1922年6月6日、貴族院勅選議員に任じられ[21]、交友倶楽部に属して死去するまで在任[22]。
また、横浜倉庫専務取締役[2][7]、横浜鉄道監査役[2][7]、自由通信社社長、満州日日新聞社長、大日本国粋会会長などを歴任した[1]。墓所は町田市華厳院。

