東京ギャング対香港ギャング
From Wikipedia, the free encyclopedia
ストーリー
スタッフ
出演者
製作経緯
企画
企画は当時の東撮所長・岡田茂(のち、同社社長)[6]。岡田と共に企画としてクレジットされているのは、1972年に東映動画(現・東映アニメーション)の大リストラを岡田と共に敢行したことでも知られる登石雋一[7][8][9][10][11][12][13][14]。東撮の"ギャング映画"は、石井輝男が先鞭を付け[15][16][17]岡田茂が路線化し[15][18][19][20]岡田が井上梅次や深作欣二、小沢茂弘らを参加させてメイン路線とした[18][21][22][23][24][25]。マンネリを避けるため、岡田の肝煎りで[1]ギャング映画のスケールの大きさを狙い、東映初の海外ロケを行ったのが本作となる[1][3]。1960年代前半に日本映画の海外ロケブームがあり[3]、1961年岸惠子主演、イヴ・シャンピ監督『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』(日仏合作)、1962年宍戸錠主演、蔵原惟繕監督『メキシコ無宿』(日活)、石原裕次郎 松尾昭典監督『金門島にかける橋』(日活=中央電影公司)、1963年早川保主演、川頭義郎監督『ローマに咲いた恋』、宝田明主演、千葉泰樹監督『ホノルル・東京・香港 Honolulu-Tokyo-Hongkong』(キャセイ・オーガニゼイション=東宝合作)、加山雄三主演、福田純監督『ハワイの若大将』(東宝)などが作られた[3]。しかしその大半はもの珍しさを狙い、題名に地名を入れ、外国風景を観光地的になぞる作品がほとんどだった[3]。岡田は「ギャング映画もスケールの大きいものを狙わないといけない。しかし観光映画にするな」と石井に指示した[3]。
撮影
石井はその指示通り一週間の海外ロケで大きな効果を上げた[1][2][26]。香港の裏街やサンパンのある港などを隠し撮り、路上生活者やゴミゴミしたスラム街の情景を丹念に拾った[1][3]。ズームレンズを使った粗い画面がドキュメンタルな迫力を生み、魔窟としての香港を活写した[1]。前述のように当時は海外ロケが流行っていたが、裏通りまで行って撮影した映画は本作以外ないといわれる[3]。人通りの多い場所ではビルの上から望遠で撮影[3]。高倉健が路上で殺されるシーンはぶっつけ本番、通行人が行き交う中でのゲリラ撮影が行われた[1]。高倉は前半で早々に殺され、後半は鶴田浩二を中心に展開する構成上の弱点は、少数スタッフ・キャストによる海外ロケを余儀なくされたためとされる[1]。当時はキャメラもまだ小型の物がなく、大きなキャメラを担いでスラム街に入った[3]。スタッフは10人も満たず、移動の際は高倉が大きな望遠レンズを担いだという[3]。
脚本
共同脚本の村尾昭は1962年の『暗黒街最後の日』(井上梅次監督)の後、岡田が大映から引き抜いた[27]。本作の後、岡田が東映京都撮影所に転任し本格化させる"任侠路線"のメインライターに笠原和夫、野上龍雄と共に抜擢されている[27][28][29][30][31][32]。