東原庠舎
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元禄12年(1699年)、第4代多久邑主(佐賀藩重臣)多久茂文が肥前国多久町東の原の椎原山(しいばるやま)の麓に設置した。茂文は朱子学を重視し、初代教授には佐賀から儒学者の川浪自安を招聘した。置かれた科目は和学、漢学、書道、和算、礼法、兵法、弓術、馬術、槍術、剣術、火術に及ぶ。当初は庠舎内に孔子像を置いていたが、新たに像と聖廟を造ることになり、庠舎の少し東に建てられたのが恭安殿(きょうあんでん)、のちの多久聖廟である[1][2]。
武士の子弟においては8歳から25歳を学齢とし、家督相続に際して文武いずれかを修習することを条件とするほど厳しかった。また武士のみならず、江戸中期以降は百姓・町人らの子弟にも門戸を開放した点が当時の他藩の藩校と大きく異なる。学問の地となった多久邑は「丹邱(たんきゅう)」の異名を持ち、「多久の雀は論語をさえずる」とも言われるようになった[3][2]。
明治に入るまで存続した東原庠舎は、1869年(明治2年)年「多久郷学校」に改称され、更に1871年には(明治4年)「多久小学校」に改称。施設は民間に払い下げられる形で1873年(明治6年)には閉校した。170余年の間に、石井鶴山、深江順房、草場佩川、草場船山、高取伊好、志田林三郎らを輩出した[2]。