平安時代の天仁元年、平泉初代藤原清衡公が中尊寺諸堂造営に着手し、その頃写経も多くなされ大量の紙が必要となった。それに応えるべく近隣の東山町で手漉き和紙が誕生したと思料される。地名である「東山」は、平泉中尊寺の近く束稲山より東方を眺めた風景が京都の東山 に似ているためつけられたといわれ、それがそのまま紙名になったと伝えられている[3]。
束稲山の麓には「紙生里」(かみあがり)という集落もあり、文字通り紙の生まれた里にふさわしい地名が今に残る[4]。
文献が残るのは江戸時代からで、正保2年 (1645年) には2名の紙漉き人が記録されている。仙台藩領では藩祖の伊達政宗が楮の植え付けと紙の生産を奨励したため、領内各地で製紙業が興った。それにより盛んになり、正徳5年 (1715年) には163人の紙漉き人があったとされる[5]。
最も盛んな時期は幕末から明治時代にかけて、長坂・田河津の各集落はほとんど軒並みといってよい程紙を漉いていたといわれる[6]。昭和17年 (1942年) においては285人を数え、県内をはじめ東北各地に広範な販路を持っていた。やがて西洋化の浸透とともに障子紙の需要は低迷し、パルプを原料として工場生産される西洋紙が普及するようになった[7]。主要産業としての和紙作りは衰退したが、現在も山谷集落を中心に4名の職人が、独特な技法を受け継ぎ和紙を生産している。
2011年12月 東山和紙を使った貼り絵人形展「宮沢賢治の世界」(東山図書館主催)を石と賢治のミュージアムなどでやる。[8]
2025年10月 同町の観光地猊鼻渓が名勝指定より100周年を迎えたことを受け、東山和紙を使用したポスターが制作された[9]。
2025年1月 東山和紙職人鈴木英一氏が岩手日日文化賞「産業・伝統工芸部門」を受賞[10]。