埼玉県大宮市(現・さいたま市)出身[1]。父は自転車の部品を作る工場を経営していたが、当人が4歳の時に事業に失敗、その後も父がギャンブルに凝った末に破産、実質上、一家は全てのものを失ったことで大宮を出て、当人と姉の二人だけは親類の家へ預けられ、後に東京都杉並区荻窪に転居[1]。
本人曰く、「近所でも評判の暴れん坊で、ガキ大将」という少年時代を過ごす。小学生の頃から映画好きで、頻繁に映画館に通っていた[1]。
杉並区立若杉小学校→杉並区立天沼中学校を経て東京都立西高等学校を卒業、一年浪人後、早稲田大学商学部に進学[2][1]。大学生時代の部活はボート部[1]。
1968年、母親からもらっていた1年分の授業料8万円のうち、4万円を私用で使い込んでしまってどうしようかと思い、そんな大学1年生の夏休みの時、アルバイトを探していくうちに、東宝映画の内藤洋子の相手役募集の記事が目に入り、そこで賞金目当てで応募して合格し、俳優としての第一歩を踏み出す。同年、東宝映画『兄貴の恋人』でデビュー[1][3]。なお、その賞金20万円は、そのうち4万円を授業料に回し、残った金で洋服を買い、友人たちと飲食しているうちに無くなったという[3]。
しかし当初は俳優になろうとは考えたことも無く、最初は映画の仕事をアルバイト感覚で思っていたが、そのうちに俳優の仕事の魅力に取りつかれ、『俺たちの荒野』に出演していた頃には、この俳優の仕事に本気に取り組もうという気になったという[3]。
1969年5月12日に日本テレビ系にて放映を開始した東宝、テアトル・プロ共同制作の『炎の青春』にてテレビドラマ初主演。酒井和歌子、黒沢年男と“トリオ主演”した『俺たちの荒野』(監督:出目昌伸)が『炎の青春』放映中である1969年6月末に公開され、同年12月には『娘ざかり』(監督:松森健)で内藤洋子と共演するなど、東宝製作の映画数本に出演。その後テレビドラマにも数本レギュラー出演していたが、俳優期間は長くなく1970年代後期頃には芸能界を引退した[4]。