東方ロカルノ体制 From Wikipedia, the free encyclopedia 東方ロカルノ体制(とうほうロカルノたいせい、独: Ost-Locarno、仏: Locarno oriental)は、1933年から1934年にかけてフランスとソビエト連邦が提唱した、東欧における地域的集団安全保障構想である[1]。 1925年に成立した西欧のロカルノ条約に対応するものとして計画され、ソ連、ドイツ、チェコスロバキア、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、フィンランドの8か国が参加する相互援助条約と、それをフランスおよびソ連が保障する枠組みを想定していた[1][2]。 1933年にナチス政権が誕生し、ドイツが国際秩序の現状を変更しようとする姿勢を強めたことから、現状維持を望むフランスとソ連は安全保障強化の必要性を認識した。両国は国際連盟を基盤とする集団安全保障政策を推進する中で、東欧におけるロカルノ条約型の体制を模索し、これが「東方ロカルノ案」と呼ばれる構想につながった。 構想の内容 1934年6月までにフランスとソ連は以下の条約案に合意した。 ソ連、ドイツ、チェコスロバキア、ポーランド、バルト三国、フィンランドによる地域的相互援助条約。 上記条約をフランスが保障し、同時にソ連がロカルノ条約を保障する。 発効条件として、関係国の批准およびソ連の国際連盟加盟を規定する。 この構想は西欧のロカルノ条約と連携し、東欧における安全保障体制を補強することを目的とした[1][2]。 頓挫 フランス外相バルトゥーとソ連外務人民委員リトヴィノフは同案の実現のために精力的な外交活動を展開した。しかし1934年9月、ドイツとポーランドが不参加の意向を示したため、条約の成立は不可能となった。結果として、東方ロカルノ体制は実現に至らず、構想段階で放棄された[1][2]。 評価 東方ロカルノ案は、ソ連の外交政策における集団安全保障路線の象徴的事例とされる。その失敗は、1930年代半ばにおける国際安全保障体制の不安定さを示すものとされている[2]。 脚注 1 2 3 4 Journal of African Studies 2015 (87): 103–104. (2015). doi:10.11619/africa.2015.87_103. ISSN 0065-4140. https://doi.org/10.11619/africa.2015.87_103. 1 2 3 4 “(書評)石川武著「「ザクセンシュピーゲルにおけるアイゲン」(法制史研究第三六号)「人についてのゲヴェーレ・小考」(北大法学論集第三七巻第四号)「Eigengewere考」(北大法学論集第三七巻第五号)」”. Legal History Review 1988 (38): 342–348. (1989-03-30). doi:10.5955/jalha.1988.342. ISSN 0441-2508. https://doi.org/10.5955/jalha.1988.342. 参考文献 植田隆子「東方ロカルノ案」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E3%83%AD%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8E%E6%A1%88。コトバンクより2025年12月22日閲覧。 Related Articles