ルイ・バルトゥー
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ジャン・ルイ・バルトゥー(Jean Louis Barthou、1862年8月23日 – 1934年10月9日)は、フランス第三共和政の政治家。1890年代より公共事業大臣(英語版)、内務大臣、司法大臣といった閣僚職を歴任し、1913年に閣僚評議会議長(首相)を務めた[1]。首相在任中にドイツ帝国の脅威への対策として三年兵役法(英語版)を可決させ、兵役を延長した[1]。戦間期にジェノア会議のフランス代表団団長を務め、1934年2月6日の危機の後に成立した第2次ガストン・ドゥメルグ内閣では外務大臣として入閣した[1]。外務大臣として東方条約構想を提唱し、その一環として東ヨーロッパを歴訪して関係改善を目指した[1]。訪問中にユーゴスラビア国王アレクサンダル1世が来仏を約束し、1934年10月に実現したが、2人ともにマルセイユで暗殺された[1]。
1862年8月23日、バス=ピレネー県(現ピレネー=アトランティック県)オロロン=サント=マリーで生まれた[1]。オロロン=サント=マリーの小神学校(英語版)に通った後、1875年にポーのリセに入学、次いでボルドー、パリで法学と政治経済学を学んだ[1]。パリで大学を出た後、ポーの控訴院(英語版)で弁護士登録を受けた[1]。
バス=ピレネー県では共和派が劣勢であり、1885年フランス代議院選挙(英語版)で敗北を喫していたため、共和派は新しい人材を必要とした[1]。バルトゥーは1887年より地元の穏健共和派の新聞に毎日のように寄稿して王党派の新聞と論戦を交わし、1888年5月の地方選挙、1889年9月の代議院選挙(英語版)でそれぞれ当選し、代議院議員に就任した[1]。
議員1期目より雄弁で知られ、特に1889年のパナマ運河疑獄の調査を要求する演説が賞賛された[1]。1893年4月にシャルル・デュピュイが第1次内閣を組閣したときにはすでに産業大臣(フランス語版)としての入閣が検討され、このときは実現しなかったが、1894年5月にデュピュイが第2次内閣を組閣したときは公共事業大臣(英語版)として入閣した(同年6月の第3次デュピュイ内閣にも留任)[1]。辞任後に政敵から南部鉄道との贈収賄問題を追及されたが、後に無罪とされた[1]。
共和主義急進派のレオン・ブルジョワ内閣期には野党の立場にあり、内閣が導入しようとした所得税に反対し、内閣の反聖職者主義、社会主義の傾向も批判した[1]。1896年4月にブルジョワが辞任し、ジュール・メリーヌが穏健共和派内閣を組閣すると、バルトゥーは内務大臣に任命された[1]。メリーヌ内閣では共済組合に関する法改正を可決させた[1]。また1898年にドレフュス事件の議論が活発になり、バルトゥーは慎重な態度をとったが、1898年の選挙(英語版)で穏健共和派が左右両派から批判されて苦戦したため、バルトゥーはより左翼寄りの立場をとることにした[1]。その後、第4次デュピュイ内閣、ドレフュス事件を解決したピエール・ワルデック=ルソー内閣、非宗教化政策を進めたエミール・コンブ内閣に入閣せず、1906年3月のフェルディナン・サリアン内閣に公共事業・郵政・電報大臣(英語版)として入閣した[1]。同年10月の第1次ジョルジュ・クレマンソー内閣でも留任して、1909年7月まで務めた[1]。在任中に西部鉄道の国有化、郵便配達員のストライキ(1909年5月)の対処に関わった[1]。1909年7月に第1次アリスティード・ブリアン内閣が成立すると司法大臣に転じ、1913年1月から3月までの第3次、第4次ブリアン内閣でも司法大臣を務めた[1]。
第4次ブリアン内閣が倒れると、バルトゥーはブリアンの後任として1913年3月12日に閣僚評議会議長(首相)および公共教育大臣に就任した[1]。1910年の選挙(英語版)で非宗教化政策に伴う社会不安、国際情勢の悪化に関心を寄せる候補者が多数当選しており、バルトゥー内閣もそれまでの内閣より右翼寄りとされた[1]。第4次ブリアン内閣は倒れる直前、ドイツ帝国の脅威への対処として、兵役を3年に延長する法案(三年兵役法(英語版))を提出した[1]。法案は内閣崩壊により成立しなかったが、バルトゥーは三年兵役法案を引き継ぎ、358票対204票で可決させた[1]。急進党のジョゼフ・カイヨーは兵役法案を反動的だとして批判しつつも可決を阻止できなかったが、国債発行に関する採決でバルトゥーを敗北させ、バルトゥーは同年12月2日に辞任した[1]。
バルトゥー内閣の後任となった第1次ガストン・ドゥメルグ内閣にはカイヨーが財務大臣として入閣した[1]。バルトゥーは平議員に戻ったが、1914年3月に代議院でエルネスト・モニ内閣(1911年、カイヨーが財務大臣として入閣)がアンリ・ロシェット(Henri Rochette)の詐欺事件で検察側に介入したことを証明する文書を読み上げ、カイヨーを辞任させた[1]。もっとも、同年4月の選挙(英語版)では左派が躍進した(バルトゥー自身は再選を果たした)[1]。
第一次世界大戦が勃発すると、同年12月14日に息子マックス(Max)がタンで戦死した[1]。バルトゥーは悲しみのあまり3年ほど政治活動をせず、1917年9月になってポール・パンルヴェ内閣で国務大臣(英語版)に就任、同年10月に外務大臣に転じ、11月まで務めた[1]。戦後、ヴェルサイユ条約締結に対する報告書を書き、政府が条約批准への支持を議会に求めるのではなく、条約を既成事実として議会に突きつけたと批判した一方、アルザス=ロレーヌの奪回とドイツのフランス保護領モロッコにおける影響力の排除といった成果は歓迎した[1]。
1921年1月から1922年1月までの第7次アリスティード・ブリアン内閣で陸軍大臣(英語版)を務めた後、1922年1月から1924年3月までの第2次レイモン・ポアンカレ内閣で司法大臣を、1922年4月から5月までのジェノア会議でフランス代表団の団長を務め、その後はヴェルサイユ条約で設立された賠償委員会(英語版)の議長を務めた[1]。1922年7月に代議院から元老院に移籍し、1927年に再選した[2]。1926年7月から1929年11月まで、第4次ポアンカレ内閣、第5次ポアンカレ内閣、第11次ブリアン内閣で司法大臣を務めた[1]。3年間という比較的に長い任期だったため、バルトゥーは司法改革を推進した[1]。1930年12月のテオドール・ステーグ内閣で陸軍大臣(英語版)を務めたが、内閣はわずか40日で崩壊した[1]。
スタヴィスキー事件をきっかけに1934年2月6日の危機が起こり、その3日後に第2次ドゥメルグ内閣が成立すると、バルトゥーは外務大臣に就任した[1]。このとき、フランス国内では社会情勢の不安と財政難、世界ではドイツが国際連盟から脱退して、軍縮交渉も失敗するなど戦争の脅威が増していた[1]。バルトゥーはドイツへの対策として東方条約構想(「東方ロカルノ」とも)を提唱し、小協商3か国(チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国、ルーマニア王国)やポーランド第二共和国との接近を試みて、1934年春にプラハ、ワルシャワ、ベオグラード、ブカレストを訪問した[1]。ポーランドはドイツ・ポーランド不可侵条約を締結してドイツに接近したばかりであり、ユーゴスラビアも仏伊関係の改善でフランスを信用しなかったが、バルトゥーはユーゴスラビア国王アレクサンダル1世から同年秋にフランスを訪問する約束を引き出した[1]。
アレクサンダル1世は約束通り、1934年10月にフランスを訪問し、バルトゥーはこれを機にユーゴスラビアとの関係改善を目指した[1]。10月9日の午後、バルトゥーはマルセイユでアレクサンダル1世を迎え、2人は自動車に乗った[1]。車がパレ・ド・ラ・ブルス(英語版)(マルセイユ証券取引所)に通りかかったところ、狙撃手ヴラド・チェルノセムスキー(英語版)がアレクサンダル1世に向けて発砲し、国王もバルトゥーも銃弾を受けた[1]。バルトゥーはなんとか車から降りることができたが、病院に搬送される途中で失血死した[1]。
東方条約構想は結局実現せず、仏ソ相互援助条約(英語版)、チェコスロバキア=ソビエト連邦相互援助条約といった2国間条約が締結されるに留まった[3]。
政治以外では文学者でもあり、オノーレ・ミラボーの伝記などを著し[4]、1919年2月6日にアカデミー・フランセーズ会員に選出された[1]。
出典
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- ↑ “BARTHOU Louis”. Le Sénat (フランス語). 2025年11月18日閲覧.
- ↑ 「東方ロカルノ」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E3%83%AD%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8E。コトバンクより2025年11月18日閲覧。
- ↑ 「バルトゥー」『旺文社世界史事典 三訂版』。https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC。コトバンクより2025年11月18日閲覧。
外部リンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 シャルル・ジョナール(英語版) |
公共事業大臣(英語版) 1894年 – 1895年 |
次代 ルドヴィック・デュピュイ=デュタン(フランス語版) |
| 先代 フェルディナン・サリアン |
内務大臣 1896年 – 1898年 |
次代 アンリ・ブリッソン |
| 先代 アルマン・ゴティエ(英語版)(公共事業大臣) ジョルジュ・トゥルイヨ(英語版)(郵政・電報大臣) |
公共事業・郵政・電報大臣(英語版) 1906年 – 1909年 |
次代 アレクサンドル・ミルラン |
| 先代 アリスティード・ブリアン |
司法大臣 1909年 – 1910年 |
次代 テオドール・ジラール(フランス語版) |
| 先代 アリスティード・ブリアン |
司法大臣 1913年 |
次代 アントニー・ラティエ(フランス語版) |
| 先代 アリスティード・ブリアン |
閣僚評議会議長(首相) 1913年 |
次代 ガストン・ドゥメルグ |
| 先代 テオドール・ステーグ |
公共教育大臣 1913年 |
次代 ルネ・ヴィヴィアニ |
| 先代 アレクサンドル・リボー |
外務大臣 1917年 |
次代 ステファン・ピション |
| 先代 フラミニウス・レベルティ(英語版) |
陸軍大臣(英語版) 1921年 – 1922年 |
次代 アンドレ・マジノ |
| 先代 ローラン・ボンヌヴェ(英語版) |
司法大臣 1922年 |
次代 モーリス・コルラ(英語版) |
| 先代 モーリス・コルラ(英語版) |
司法大臣 1926年 – 1929年 |
次代 リュシアン・ユベル(フランス語版) |
| 先代 アンドレ・マジノ |
陸軍大臣(英語版) 1930年 – 1931年 |
次代 アンドレ・マジノ |
| 先代 エドゥアール・ダラディエ |
外務大臣 1934年 |
次代 ピエール・ラヴァル |
| 学職 | ||
| 先代 アンリ・ルージョン |
アカデミー・フランセーズ 席次28 1918年 – 1934年 |
次代 クロード・ファレール |