東方朔
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『史記』による記述
斉の出身で古文書や経学を愛し、雑書・史伝を広く読んでいた。初めて長安に入ったときに、3000枚の竹簡に書かれた上書を提出し、武帝は2ヶ月かけて読み終え、朔を郎官に任命した。その後は側近としてしばしば、武帝の話し相手を務めていた。気性の激しい武帝も東方朔と話せば上機嫌となり、金品を賜ったり食事の陪席を命じる事も度々であったという。
武帝に食事を招待されたときには、食べ残しの肉をすべて懐に入れて持ち帰ろうとして服を汚すのが常であり、下賜された銭・帛を浪費して、長安の若い美女を次々と娶り一年もたつと捨てて顧みないという暮らしをしていた。これは、采陰補陽という一種の修身法であったが、それを知らない同僚には狂人扱いされていたという。武帝はそれでも「朔に仕事をさせれば、彼ほどの仕事ぶりを示す者はいないだろう」と評価していた。
博士たちが戦国時代の賢者たちと比較して、朔を非難したことがある。その博聞弁智を抱えて無為に過ごし、官は侍郎で位は執戟にすぎないのはどうしたわけなのか、と。朔は「天下に災害がなければ聖人がいたとしてもその才を施すところがない。上下が和同していれば、賢者がいたとしても功を立てるところはない」という古諺を引いて、戦国と漢代は違うこと、自分が学を修め道を行うのは出世のためではない、という所信を述べている。
朔は息子を郎官にしてもらい、その息子は「侍謁者」となり、都を出て使いするようになった。老齢になり死期が近づいたときに武帝に讒言を斥けるように諫めて、まもなく病死した。司馬遷は「鳥がまさに死なんとするときは、その鳴き声は哀しい」と東方朔をたたえ、朝廷の中にいて世を避けたと自認するこの賢人に共感を抱いていたことがわかる。


