東根景佐
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生涯
天正9年(1581年)、最上義光の調略に応じて東根城主である東根頼景を殺害して、城主となった。 景佐は元は里見氏を称しており、東根氏との関係は不明である。
慶長出羽合戦では最上義光から「今度の奉公、比類なきに依り」と、東根支配を認める宛行状を与えられた。 『最上義光分限帳』によると、東根一万二千石を領知していた。
子の東根親宜は最上家親から偏諱を賜る他、最上義光の四女禧久姫を妻として迎えるなど、景佐が重臣としての処遇を受けていたことが窺える。
元和6年(1620年)12月に死去した。 遺言状では「もかミの御国三年と此分ニあるましく候」(最上家はもう三年も保たないだろう)と最上家中の内紛を憂いている。
出典
- 『家康に天下を獲らせた男 最上義光』(柏書房・2016年3月1日)ISBN 4760146962