松原忠司
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播磨国小野藩の藩士の子として生まれる。初名は小太郎。松原弥三左衛門は親族と思われる。
天神真楊流柔術を船川楫之輔柳真斎から学び北辰心要流柔術を開いた[2]。
安政年間に「徘徊御免」となり、その後は大坂で北辰心要流柔術、(関口流棒術も伝える。また、不遷流も伝えていたともいわれる)の道場を開いていた。なお、永倉新八は松原を「大坂浪人」としている。
文久3年(1863年)5月までに、新選組の前身である壬生浪士組に入隊している。同年の八月十八日の政変では仙洞御所前、及び禁裏御所南門の警備を担当したが、その時の風貌は坊主頭に白い鉢巻を巻き、脇には大薙刀を携えるという異様なものであり、そこから今弁慶の異名をとった。
元治元年(1864年)の池田屋事件では土方歳三の隊に属し、戦功を挙げ報奨金15両を賜る。こうした活躍もあり、慶応元年(1865年)4月の組織再編で四番組組長・柔術師範となる。
同年9月1日死去。新選組の記録では病死とされているが、その死については諸説ある(何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、平隊士に降格されたという点は多くの説に共通する。一説には銃殺とも)。広島大学の奈良勝司は「人見・中川両苗と新選組 ―幕末における二つの「郷士」集団―」において、丹波国桑田郡馬路村における郷士と地頭役人の争いへの対応に不備があったことを一因に挙げている。墓は光縁寺にある。