松山忠之助
江戸時代の探検家。遭難時に海に流した遺書が約150年後に発見され、最古のボトルメールと呼ばれた。
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
1784年(天明4年)松山忠之助ら45名は主君に命じられ、北の果てにあるという「伝説の宝島」を目指して出航した。ところが暴風雨に遭って帆を失い、壊れた船で70日余り漂流したのち無人島に漂着した。同志はことごとく病死し、大工の平作と2人だけが生き残った。自分たちも死期を悟って木片に航海の経緯を記し、徳利に詰めて海に投じた。この遺書は、約150年を経て1935年(昭和10年)に青森県東津軽郡平舘村(現在の外ヶ浜町)の海岸に漂着し、青森測候所に持ち込まれた[1][2]。
出航したのが天明の大飢饉の最中で、漂着したのが後に昭和農業恐慌と呼ばれる凶作期の青森だったことから、遺書の発見は猟奇的な話として新聞で報じられた。なお、遺書に松山忠之助の出身地は記されておらず、彼らが漂着した無人島の位置も明確ではない[1]が、氷山の描写があるだけに寒冷地と思われる。この出来事は最古のボトルメールとして海外にも一部が脚色されて伝わり、英米の雑誌や海洋学の専門誌でたびたび報じられた[3]。
遺書
松山忠之助の遺書が記された木片は15~18センチメートル×6センチメートル程度(長さ5、6寸、幅2寸位)のものが2枚で、きわめて弱々しい漢字カナ混じりで記されている、一枚目は表裏に(一)(四)、二枚目は(七)と上部に数字が記されていたが、(二)~(六)は発見されなかった[1]。
一、主命ニヨリ吾等一行四拾五名ハ北ノ果ニアリト聞ク寶島探検ニ出デ候エ共海神忿リて天海狂ヒ氷ノ山襲ヒ来リ船破レ帆ハ奪ハレ漂流スルコト七拾餘日ニシテ今(後不明)
四、無キ島ニ着キタルハ大工平作殿ト二人ニ候、今ヤ命幾何モコレナク木村殿外二十二名ノ遺書ハ酒樽ニ収メ海中に投ジ申候、命ヲ果サズ、此ノ地ニ朽チルヲ一同(後不明)
七、カシト神に念ジツゝ徳利ニ此ノ書ヲ託シ申候
— 報知新聞(昭和10年11月3日 21136号日曜夕刊)
- 天明四辰年 松山忠之助正敏
報道
遺書の発見は1935年(昭和10年)に発行の報知新聞(昭和10年11月3日 21136号日曜夕刊)[1]に写真入りで掲載され、遅れて地方紙の山陰日日新聞(11月5日)[2]も報じた。
悲壮な日本のコロンブス物語、「宝島」を求めて船出の四十五名、悲しき文字の木片が漂着
天明の大飢饉の翌年、伝説の宝島を求めて船出した人たちが暴風雨に遭い、ついに無人島に漂着して死の直前木片に記したものと思われる、猟奇極まる今よりちょうど百五十年前の遺書が奇しくも凶作の秋、青森県に漂着してきた。青森県東津軽郡平舘村副士甚吉氏が同村海岸で数日前発見したもので、一日青森測候所に持参した(以下本稿と重複するため省略)
(原文は旧字体、旧仮名遣い。掲載にあたり句読点と送り仮名を補足。)
海外への波及
このニュースは「ボトルメール」の最も古い記録として海外に伝わり、以下のような物語として紹介された( Robert Kraskeの "The Twelve Million Dollar Note: Strange but True Tales of Messages Found in Seagoing Bottles" (1977) による[4])が[5]、真偽は不明とされた[6]。
1784年、日本人のMatsuyama Chunosukeと43人の仲間が太平洋諸島へ財宝探しに行こうと海にのりだしたが、嵐に遭い珊瑚礁に座礁し近くの島に避難せざるを得なくなった。だが、その島で飲料水と充分な食糧を見つけることができず、そこで得られるココナッツや蟹だけを食べているうちに脱水症と飢餓で死亡者が出始めた。そこでMatsuyamaは自分が死ぬ前に、自分たちの旅で起きたことをココナッツの木の断片に書き、それを瓶につめて海に流した。およそ151年後の1935年、日本のワカメ採りの人がその瓶を見つけた。その瓶は、Matsuyamaの故郷Hiraturemuraの海岸に漂着していたのであった。
原文と比較すると、木片がココナッツ、「無キ島」が珊瑚礁近くの島、瓶の漂着した海岸が松山忠之助の故郷と脚色されている。
この話は戦後、海外を通じて再び日本に伝わった。1959年(昭和34年)にリーダーズ・ダイジェスト日本編集部が専門家および平舘の地名を持つ青森県東津軽郡平舘村および千葉県安房郡千倉町(現在の南房総市)に問い合わせたが、既に知る人はいなかったという[3]。