庄屋の二男に生まれたため家業を継ぐことができず、高知城城下にて医術を学ぶ。一時は半山郷で開業するが、千屋菊次郎とともに大坂へ医学を学びにいく。
文久2年(1862年)6月に江戸へ学問修行の名目で自費で江戸に行き土佐勤王党に147番目に加盟。勤王党員として江戸や京で活動。同年10月姉小路公知の衛士として江戸へ上る。
文久3年(1863年)4月、関東の情勢を探った後土佐藩の政局変化に伴い帰国。9月に千屋とともに土佐を出て(脱藩の可能性が濃厚)、長門国の三田尻を経由し、中岡慎太郎率いる忠勇隊の一員として京に入る。禁門の変に敗れ、天王山にて真木保臣らとともに自決した。なお、このとき千屋菊次郎も共におり、運命を共にした。享年28。
明治24年(1891年)、従四位を追贈された[1]。