姉小路公知
From Wikipedia, the free encyclopedia
|
姉小路公知 | |
| 時代 | 江戸時代後期 |
| 生誕 | 天保10年12月5日(1840年1月9日) |
| 死没 | 文久3年5月20日(1863年7月5日) |
| 改名 | 善麿、公知 |
| 墓所 | 京都市上京区清浄華院 |
| 官位 | 正四位下、右近衛権少将、贈正二位 |
| 主君 | 仁孝天皇→孝明天皇 |
| 氏族 | 姉小路家(閑院流) |
| 父母 | 父:姉小路公前 |
| 兄弟 | 公知、良子 |
| 子 | 養子:公義[1] |
姉小路 公知(あねがこうじ きんとも / きんさと[2])は、江戸時代後期の公家。姉小路公前の子[3]。幼名は善麿[4]。官位は正四位下・右近衛権少将。
有職故実に極めて精通し、「朝暦」ともあだ名された[4]。幼少期より三条実美を学友とし、学習院では三条のほか、東久世通禧、橋本実梁らと共に学んだ[4]。周囲には常に「国家のために身を致し報効の誠を尽くすべし」と説いた[4]。幕末に家督を承けて以来、尊攘派の急先鋒として活躍したが、朔平門外の変で暗殺された[4]。維新後、生前の功により正二位を追贈された。
天保10年12月25日(1840年1月9日)、公卿・姉小路公前の子として誕生。安政4年(1857年)3月に家督を承ける[4]。安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。文久2年(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美と共に江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。
のちに国事参政となり、三条と共に攘夷派の先鋒となったが、文久3年(1863年)5月20日の夜半、深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われる。扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて卒去(朔平門外の変)。享年25(満23歳没)。墓所は京都市上京区の清浄華院。