松山鮓
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子規は、松山鮓を故郷の味として愛し、機会があるごとにつけて食べていたようで、後年、松山鮓を郷土料理の誇りとしていたことが有名な語り草となっている[4][5]。
1892年(明治25年)8月、大学予備門の学生だった夏目漱石が初めて松山を訪れ、正岡子規の家に立ち寄ったとき、母、八重がもてなしたのが松山鮓であり、漱石は大いに喜んだ[6][7]。
和服姿にあぐらをかいて、ぞんざいな様子で箸を取る子規の前で、極めてつつましやかに紳士的な態度であった漱石は、洋服の膝を正しく折って正座し、松山鮓を一粒もこぼさぬように行儀正しく食べていたそうで、その時の様子は、同席していた高浜虚子が、書物の中で回想しており[8]、後々に語り継がれている。
また、グルメであった子規にとって、母がこしらえた松山鮓が故郷の味であり、愛する松山の大切な思い出でもあったようで[9]、このことは、子規が松山鮓に関する俳句を数多く残していることからもうかがい知ることができる[10]。
われに法あり 君をもてなす もぶり鮓
ふるさとや 親すこやかに 鮓の味
われ愛す わが豫州 松山の鮓
なお、後日談として1895年(明治28年)の春、松山中学校の教師として漱石が再び松山を訪れた際(このときの経験が後年、小説『坊っちゃん』のモデルとなっている[11])、第一番に所望したのが松山鮓だったそうで[4]、漱石にとってもお気に入りの松山料理であったことが想像できる。