松平信義 (小島藩主)
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越後国村松藩主・堀直尭の次男として誕生。母は山田氏。先代藩主・松平昌信の娘と結婚して婿養子となる。明和8年(1771年)6月27日に昌信が没したため、同年8月29日に跡を継いだ。
治世中に用人や年寄本役として仕えていた倉橋格(寿平)は恋川春町の名で黄表紙を執筆していたが、天明9年(1789年)刊行の黄表紙『鸚鵡返文武二道』が老中松平定信の文武奨励策を風刺した内容だったため幕府の命により絶版にされる事件が起きた。
寛政8年(1796年)普請奉行が小島藩の宮ケ崎役所の大畑雄作と共に巴川の検分の際、麻畑沼の新田開発賛成派が開発の是非を願い出た。検分の結果、不許可となり90年あまり続いた新川事件は幕を下ろした[1]。
寛政12年(1800年)に隠居し、家督を長男・信圭に譲って隠居し、享和元年(1801年)に死去した。法号は源隆院。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。