松本義一郎
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松本家は江戸時代中期から掛川城下で「松屋」の屋号で葛布の販売を行っていた商家であった。松本家は19世紀には掛川藩から御用達に任じられ、帯刀と苗字の使用が許されていた[2]。
松本義一郎は第7代松本家当主松本文治の婿養子として城東郡の名家であった黒田家(黒田源五郎3男[1])から1879年(明治12年)2月[1]に入籍していた。しかし、文治が39歳の若さで亡くなると、1881年(明治14年)11月[1]松本家当主となった。1882年(明治15年)、義一郎は城内農学社に製糸工場(資本金1万円)の設立の話が持ち上がると、6名の上位出資者に名を連ねて、豊田郡深見村の分社にも出資した。しかし、 この製紙工場は松方デフレによって苦しい経営に見舞われた[2]。 1886年(明治19年)7月、東海道鉄道の敷設が決まり、静岡 - 浜松の海岸線を中心とするルートで測量が開始された。これをうけ、義一郎や山崎千三郎は海岸線ではなく、当時発展していた東海道の宿駅筋を通すべきであるという署名を集め、上申書を静岡県知事であった関口隆吉に提出した。結局、東海道鉄道は山側に建設され、1889年(明治22年)、掛川駅が開業された[2]。1886年には掛川農学社に獣医講習所の開設に携わっている。さらに、 1888年(明治21年)掛川農学社に岡田良一郎等が養蚕伝習所を設立すると地域養蚕事業の発展を支援している[2]。また、明治維新で一時衰退した葛布業界の再建を推し進めた。旧来の織機を改良し、襖地の生産に力を入れた。1877年(明治10年)葛布の外国に輸出を試み、20年代には葛布の脱色に成功した。さらに、1888年(明治21年)「掛川葛布商会」を設立し、自ら会長に就任した[2]。1899年 (明治32年)慶應義塾を卒業した[1]。
明治30年代になると、染色技術を生かし、「グラスクロース」と称して葛布の海外輸出を行った。更に国内の主要都市でも販路を広げ、1904年(明治37年)には静岡県主要物産となって「遠州葛布同業組合」を創立することになった[2]。 1910年(明治43年)には掛川の葛布製品が日英博覧会で銀牌を受賞した[2]。
1900年(明治33年)正月4日、掛川西町の海望亭から出火し、掛川町全体に及ぶ火事が起こり、西町・中町・連雀等194戸を焼失し、義一郎の中町の店が全焼した。義一郎は岡田良一郎とのよしみで別邸としていた「竹の丸」に本宅を建設した。また、同時期に岡田良一郎を中心に進めていた報徳社の大講堂の建設に義一郎も協力している[2]。
1903年(明治36年)、掛川銀行の取締役に就任し、1921年(大正10年)まで勤めた。 1905年(明治38年)には岡田良平等と釜山鉄道を視察に出掛けている。1906年(明治39年)、掛川綿毛布株式会社設立に携わっている。 1914年(大正3年)、多くの田畑を所有していた義一郎は「小笠郡地主会」を発足させた。1935年(昭和10年)、掛川城の太鼓櫓を掛川町に寄贈した。さらに、1936年(昭和11年)、松屋の拠点を東京に移すこととなったため、竹の丸の松本邸を掛川町に寄贈した[2]。
息子松本文次に家督を譲る。文次は東京に出て、商社を経営するが、1993年(平成5年)に亡くなり、松本家は断絶した[2]。
脚注
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第3版』1911年。