松殿冬房

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時代 鎌倉時代中後期 - 室町時代前期
生誕 文永7年(1270年[1]
改名 基定[注釈 1](初名)→冬房→円成(法名)
 
松殿 冬房
時代 鎌倉時代中後期 - 室町時代前期
生誕 文永7年(1270年[1]
死没 康永1年6月26日1342年7月29日
改名 基定[注釈 1](初名)→冬房→円成(法名)
官位 正二位権中納言
主君 伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇[注釈 2]
氏族 松殿家
父母 父:松殿良嗣
母:岩蔵宮女房按察使局[注釈 3]
猶父:一条家経[注釈 4]
兄弟 鷹司伊氏、頼房、冬房持明院保藤、隆弁、禅弁、亀山院女房新大納言
良雅の娘
忠冬(師基)、仁信、尋忠、寸王丸
花押 松殿冬房の花押
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松殿 冬房(まつどの ふゆふさ)は、鎌倉時代中後期から室町時代前期にかけての公家。初名は基定(もとさだ)。右近衛中将松殿良嗣の子。摂政左大臣一条家経の猶子。官位正二位権中納言

後深草院政期初頭の弘安11年(1288年従五位下叙爵し、正応3年(1290年侍従次いで左近衛少将に任官する。その後、正応4年(1291年)従五位上、正応5年(1292年正五位下、正応6年(1293年従四位下永仁4年(1296年)従四位上、永仁5年(1297年)左近衛中将、永仁6年(1298年正四位下と、伏見天皇親政期に近衛次将を務めながら昇進を重ねた。

正安3年(1301年後二条天皇即位して皇統が大覚寺統に遷ると、冬房の昇進は停滞する。

延慶元年(1308年花園天皇が即位して皇統が持明院統に戻ると、冬房は従三位に叙せられて公卿に列し、引き続き近衛中将を兼帯した。その後も、延慶3年(1310年正三位正和2年(1313年従二位に昇叙されると、文保元年(1317年参議に任ぜられ、父の良嗣が叶わなかった議政官への昇進を果たし、なおも中将を兼帯している。翌文保2年(1318年)1月、前年に位階が下位(正三位)で家格も劣る二条為藤が先に権中納言に昇進したことを不満として参議を辞任する。同年2月の大覚寺統の後醍醐天皇即位を挟んで、10月に冬房は前参議から権中納言に昇進するも、12月には早くも権中納言を辞した。

実父の松殿良嗣は冬房が五位少将であった時に、猶父で摂政も務めた一条家経も四位少将であった時に没しており、冬房は花園天皇を除けば、頼るべき有力な後見者が皆無に等しい状況にあった。また、冬房が昇進への不満から辞官したことも結局のところ、花園天皇の寵愛を笠に着ただけのことであったとも想定される。実際、天皇からの寵愛ぶりを示す逸話として、『花園天皇宸記』には元亨2年(1322年)に後伏見上皇と花園上皇が密かに冬房邸へ赴き、舞楽を見物した記録が残されている[2]。その一方で、冬房の子である尋忠は、大覚寺統である後宇多法皇の寵童であったことが知られており[注釈 5]、持明院統の下で昇進した冬房の動向と比較して特筆される点である。

権中納言辞任後、官職に復帰することがないまま、延元元年(1336年)10月に出家康永元年(1342年)6月26日に腫物が原因で薨去。享年73。

官歴

公卿補任』による。

和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢[注釈 6] 事項
弘安11年(1288年 3月8日 19歳 従五位下[注釈 7]
本名基定、改冬房
正応3年(1290年 9月5日 21歳 侍従
11月27日 左近衛少将
正応4年(1291年 1月6日 22歳 従五位上
12月26日 復任[注釈 8]
正応5年(1292年 10月28日 23歳 正五位下
正応6年(1293年 6月24日 24歳 従四位下
11月6日 還任左少将
永仁2年(1294年 3月27日 25歳 備中権介
永仁4年(1296年 1月5日 27歳 従四位上
永仁5年(1297年 4月10日 28歳 左近衛中将
永仁6年(1298年 7月13日 29歳 正四位下
延慶元年(1308年 11月8日 39歳 従三位、中将如元
延慶3年(1310年 3月9日 41歳 正三位
応長元年(1311年 3月30日 42歳 美作権守
6月23日 止権守
正和2年(1313年 9月6日 44歳 従二位
文保元年(1317年 2月5日 48歳 参議、中将如元
文保2年(1318年 1月22日 49歳 辞退[注釈 9]
10月6日 権中納言(元前参議)
12月10日 辞納言、正二位
延元元年/建武3年(1336年 10月 67歳 出家(法名:円成
康永元年/興国3年(1342年 6月26日 73歳 逝去(腫物云々)

系譜

脚注

参考文献

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