松花堂弁当

十字形の仕切りがある弁当 From Wikipedia, the free encyclopedia

松花堂弁当(しょうかどうべんとう)は、中に十字形の仕切りがあり、縁の高いかぶせ蓋のある弁当箱を用いた弁当

吉兆の松花堂弁当
松花堂弁当の器

仕切りのそれぞれに刺身、焼き物、煮物、飯などを見栄え良く配置する。盛り分様式としては、ごはんと数種類のおかずを組み合わせたものであり、幕の内弁当に似ているとも言え、しばしば混同もみられる。

「松花堂」の名は、江戸時代初期の石清水八幡宮京都府八幡市)の社僧であった松花堂昭乗1584年(天正12年) - 1639年(寛永16年))に因むものである。昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントにこの形の器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していた。

その入れ物が松花堂弁当に発展したのは、それから数百年を経た昭和の初め。1933年(昭和8)頃に、料亭「𠮷兆」創始者の湯木貞一が松花堂の遺跡(京都府八幡市。現在の史跡・松花堂庭園)を訪れた際に、松木地盆を手に入れたことから始まる(『松花堂弁当-ものがたり-』、湯木美術館発行、2007)。

湯木貞一は『𠮷兆味ばなし』(1998)で「昭和のはじめに、松花堂のあるお寺が、これをおとき入れに使っていた、それを私が見てきて、これはいい、これに点心を入れて出そうとおもったのが、はじめです。」[1]と語っている。

湯木が所持した松木地盆は蓋がなく、当初は前菜(オードブル)の器として使われていた。昭和11年2月20日の大阪毎日新聞には「洋食・和食を通じてこの頃“前菜時代”です」のタイトルの記事が掲載されている。

後年、湯木は仕切りがあることで料理同士の匂いや味が移らないという利点を考慮し、この松木地盆を元に、寸法や塗を独自に工夫と調整をして、かぶせ蓋を付け弁当箱を考案した(『松花堂弁当-ものがたり-』、湯木美術館発行、2007)。松花堂弁当は少しずつ手が加えられ、現在も料亭「𠮷兆」で受け継がれている。

なお、貴志彌右衛門が大阪(桜宮)邸内の茶室「松花堂」で茶事が催された折、湯木貞一に、この器で茶懐石の弁当をつくるようにと命じたのがはじまりであるとされる説もあるが、根拠とされる「西田幾多郎日記」昭和8年、太田喜二郎「絵茶會記」に該当の記事は確認されていない。他にも、「松花堂弁当の依頼を受けると、湯木がその都度貴志家への挨拶を怠らなかった」や、「松花堂昭乗が、上記の十字の仕切りがはいった箱に料理を盛って、来客をもてなした」とする言説があるが、おそらくこれは後世の創作、あるいは誤解に基づくものであるとされている。

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