板倉重同の長男。
幕府では長年若年寄を勤め、泉から相良、さらに安中とめまぐるしく増転封を繰り返す。延享4年(1747年)には分家の旗本7000石板倉勝該が勝清を殺害しようとして、肥後国熊本藩主細川宗孝を殺害するという事件が発生した。本家筋にあたる勝清が狂疾で家政に能わざるとみた勝該を廃嫡しようとしたところを逆恨みしての事件といわれる(本分家の諍いでなく、元より細川宗孝が標的とする異説もある[4])。
寺社奉行、若年寄、側用人、西丸老中を経て、明和6年(1769年)には本丸老中に起用される。安永9年(1780年)まで務め、在職のまま没した。跡は長男・勝暁が継いだ。