林玄仲
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経歴
寛政7年6月27日(グレゴリオ暦:1795年8月11日)に父・宗吉、母・つじの間に大形家の長男として、志摩国答志郡穴川村(現・三重県志摩市磯部町穴川)に生まれる[2]。幼名は大形半次郎であった[1]。宗吉・つじ夫妻は結婚後数年を経ても子供ができなかったため、佐美長神社に祈願してようやく授かった子が半次郎であったという[3]。孝行息子の半次郎は父母を助け、農作業をする日々を送っていたが、17歳の時に医学を志して江戸に上った[1]。
江戸に上った半次郎は、伊予国今治藩の侍医である林玄曠の知遇を得て文化12年(1815年)に玄曠の養子となり、禄高100石30人扶持となった[1]。この時、名を林玄仲と改めた[4][5]。字は忍種杏園である[1]。天保9年(1838年)には江戸幕府の奥医師となり、多くの大名から信頼を得ていた[1]。奥医師時代に御柳と結婚した[1]。麹町三丁目に居住していた時代があり、自宅付近の坂道を石畳舗装して雨天時の通行も容易にしたことから、その坂は「玄仲坂」と呼ばれるようになった[1]。
幕末に奥医師を辞し、伊勢国山田(現・三重県伊勢市)へ引っ越す[1]。ここで度会府知事の橋本実梁に請われて度会府・度会県の役人となり、府政・県政に参与した[1]。役人時代も玄仲の自宅には多くの患者が治療してほしいと訪れたという[6]。
老後は生まれ故郷の穴川村に帰り、地域の子供達を教育する[1]とともに郷土の発展に努めた[4]。特に慶応元年(1865年)には金750両を拠出して「永代義倉講金」を創設し、村に預金することで発生する利子で[4]雑穀類を買って蓄えておき[1]、窮乏する村人の救済に充てた[4]。その恩恵は志摩国磯部・加茂・神明・立神にまで及んだ[4]。明治9年(1876年)には「永代義倉講金」に250両を追加投入して1000両に増加させた[1]。「永代義倉講金」は学制発布による磯部の村々に設置された学校(後に統合され志摩市立磯部小学校となる)の設置資金となった[6]。
明治10年(1877年)、息子・純造の住む大阪へ移り、老齢のため病気にかかり、翌明治11年(1878年)に亡くなった[1]。