柳原資綱
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逸話
所領経営で因幡に在国する傍ら、上洛時には柳原家の体面を保つため、月次和漢会等に出席し、社交面でも活発に動いていた。ただ、和漢はあまり上手ではなかったようで甘露寺親長からは「和漢ども堪能にあらざるか」と評されている。(『親長卿記』)明応元年の改元の際には「近江知行分が復活したならば、すぐさま上洛して父子共々朝政に奉仕する」と述べ、近江国の所領の復活を要請していたが、不可能と回答されたために新元号の勘者に選ばれていた子・量光の上洛を拒否し、引き続き因幡に在国した。文亀元年(1501年)閏6月27日、丹州に滞在中に病気が原因で薨去。享年は83と高齢であった。三条西実隆からは「朝の大老なり」と評されている。
系譜
- 父:柳原忠秀
- 母:日野西資国の娘
- 妻:不詳
- 男子:柳原量光
- 男子:柳原光秀