甘露寺親長
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| 時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
|---|---|
| 生誕 | 応永31年(1424年) |
| 死没 | 明応9年8月17日(1500年9月10日) |
| 改名 | めめ(幼名)→親長→蓮空(法名) |
| 別名 | 一字名:鬼 |
| 墓所 | 浄蓮華院 |
| 官位 | 正二位、権大納言 |
| 主君 | 後花園天皇→後土御門天皇 |
| 氏族 | 甘露寺家 |
| 父母 |
父:甘露寺房長 母:禅尼 |
| 兄弟 | 三条西公保室、親長、良助 |
| 妻 | 南向 |
| 子 |
万里小路春房、元長、了淳、空済、男子、慶祐、真益/真盛、朝子(中御門宣胤室)、親子(後花園天皇典侍)、冷泉局(朽木貞綱室) 養子:元済 猶子:慶助、賀々丸、越州堀川局、利貞尼 |
| 花押 |
|
甘露寺 親長(かんろじ ちかなが)は、室町時代中期から戦国時代にかけての公卿。左大弁・甘露寺房長の子。一字名は鬼。官位は正二位・権大納言。
応永31年(1424年)、甘露寺房長の子として誕生。永享4年(1432年)、8歳の時に父を失い、甘露寺家の家督を継いでいた従兄弟の甘露寺忠長に養育される。幼名をめめ(めめまる)と言った[1]。永享6年(1434年)2月、忠長が6代将軍・足利義教の不興を買ったことで、家督を継ぐ。忠長は永享8年(1436年)5月に死去する。
永享9年(1437年)正月6日、叙爵し、親長を名乗る(『看聞日記』)。貞成親王によれば、囲碁や蹴鞠が巧かった(『看聞日記』同年6月1日条)。翌永享10年11月28日、元服し(『看聞日記』)、本格的に官人としての活動を始める。甘露寺家を嫡流とする勧修寺流は、朝廷の実務を担う家柄であり、そのために記録や文書を受け継ぐことを重視し、「日記の家」とも称された。ところが、吉田経房の『吉記』や葉室定嗣の『葉黄記』、また叔父清長や先代忠長の日記等、甘露寺家相伝の記録や文書の多くは、忠長から親長に引き渡されずに忠長の母が保持しており、彼女がこの頃よりそれらを諸方に売却していることを、万里小路時房に相談している(『建内記』永享11年6月9日条)。また、嘉吉元年12月には、忠長遺児の郷長より、家督継承を巡って訴訟を起こされたが(『建内記』嘉吉1年12月26日条)、最終的に親長の家督は奪われなかった[2]。
永享11年(1439年)6月以前に左衛門佐となり、嘉吉元年(1441年)、従五位上に叙される。嘉吉3年(1443年)9月、南朝の遺臣が内裏に侵入し、三種の神器を奪った事件(禁闕の変)が起きた際、自ら太刀を振るって後花園天皇を守護した逸話が知られる。
文安元年(1444年)右少弁、同3年(1446年)正月20日、蔵人に任じられると共に、正五位上に昇る。同年12月には権右中弁に昇任。その後も累進し、享徳元年(1452年)3月23日、参議昇任と共に右大弁に転じる。権中納言であった康正2年(1456年)3月29日、陸奥出羽按察使に任ぜられ、以後明応2年(1493年)まで同職にとどまったため、按察使の名で呼ばれた。また長年、賀茂伝奏も務める。寛正6年(1465年)に権中納言を辞す。
応仁の乱による戦火で自邸が焼失したため、勧修寺・鞍馬寺等へ避難するが、文明2年(1470年)にはそれらも焼け出され、家蔵の文書・日記類も焼失した。同年9月には帰京し、再出仕。既に前年には正二位に昇っていた。有職故実に通じていたことから、多くの公卿から指導を依頼され、たびたび官に推挙されたが、「高官無益なり」とかたくなに断ったという[3]。
その一方で、文献の書写や部類記の作成に従事し、文明9年(1477年)には、後土御門天皇の命によって洞院公賢の年代記『皇代暦』を増補して天皇に献上した。その書写によって現代に伝わる文献も多く、特に『吉記』や洞院公賢の『園太暦』の現存する写本の大部分は、親長の手によるものである。自身の日記も残し(『親長卿記』)、同時代の貴重な史料となっている。また、文明15年(1483年)に派遣された遣明船に自ら投資して勘合貿易の利益を得る一方で、朝廷にも投資をさせて財政難を補う一助としたり、文明18年(1486年)には『源氏物語』の一筆書写を終えた記念に、『源氏物語』の巻名を歌題とする大規模な供養歌会を開くなど、公家文化の復興に努めた[4]。
明応元年(1492年)、嫡子元長ら周囲の強い薦めにより権大納言への就任を受けたが、翌年に明応の政変に憤慨した後土御門天皇が退位を決意すると、これを諌め、その直後にすべての官を辞して出家。法名・蓮空を名乗る。明応9年(1500年)、美濃国で薨去。享年77。
官歴
| 和暦(西暦) | 月日(旧暦) | 年齢 [注釈 1] | 事項 |
|---|---|---|---|
| 永享9年(1437年) | 1月6日 | 14歳 | 叙爵 |
| 永享11年(1439年) | 6月以前 | 16歳 | 左衛門佐に任ず |
| 嘉吉元年(1441年) | 1月6日 | 18歳 | 従五位上に昇叙 |
| 文安元年(1444年) | 3月29日 | 21歳 | 右少弁に任ず |
| 文安3年(1446年) | 1月29日 | 23歳 | 蔵人に補す、正五位上に昇叙 |
| 12月7日 | 権右中弁に転任 | ||
| 文安5年(1448年) | 1月5日 | 25歳 | 従四位下に昇叙 |
| 11月6日 | 従四位上に昇叙 | ||
| 宝徳2年(1450年) | 3月29日 | 27歳 | 権左中弁に転任 |
| 4月12日 | 左中弁に転任 | ||
| 10月9日 | 蔵人頭に補す、正四位下に昇叙 | ||
| 宝徳3年(1451年) | 2月7日 | 28歳 | 正四位上に昇叙 |
| 3月26日 | 兼伊勢権守 | ||
| 享徳元年(1452年) | 3月23日 | 29歳 | 参議に補任、右大弁に転任 |
| 3月25日 | 従三位に昇叙、左大弁に転任 | ||
| 享徳2年(1453年) | 10月8日 | 30歳 | 権中納言に転任 |
| 康正2年(1456年) | 3月29日 | 33歳 | 兼陸奥出羽按察使 |
| 4月9日 | 正三位に昇叙 | ||
| 長禄2年(1458年) | 7月22日 | 35歳 | 陸奥出羽按察使を辞す |
| 8月 | 陸奥出羽按察使に再任 | ||
| 長禄3年(1459年) | 7月2日 | 36歳 | 権中納言を辞す |
| 7月3日 | 権中納言に還任 | ||
| 寛正6年(1465年) | 1月5日 | 42歳 | 従二位に昇叙 |
| 3月24日 | 権中納言を辞す | ||
| 文明元年(1469年) | 9月26日 | 46歳 | 正二位に昇叙 |
| 明応元年(1492年) | 1月12日 | 69歳 | 権大納言に転任 |
| 明応2年(1493年) | 2月4日 | 70歳 | 陸奥出羽按察使を辞す |
| 6月15日 | 権大納言を辞す | ||
| 8月27日 | 出家 | ||
| 明応9年(1500年) | 8月17日 | 77歳 | 美濃国にて薨去 |