柳本虎満丸 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 大永7年(1527年)あるいは大永8年(1528年)死没 不明主君 細川晴元 凡例柳本虎満丸時代 戦国時代生誕 大永7年(1527年)あるいは大永8年(1528年)死没 不明主君 細川晴元氏族 柳本氏父母 柳本賢治子 後継者:柳本秀俊テンプレートを表示 柳本 虎満丸(やなぎもと/やないもと とらみつまる)は、戦国時代の武将[1]。 虎満丸は柳本賢治の子で、天文元年(1532年)正月の『二水記』に「弾正(賢治)息四五才歟」とあり大永7年(1527年)あるいは大永8年(1528年) であるとわかる[1]。 賢治が享禄3年(1530年)に殺害されると、当時の虎満丸は幼かったために一族の柳本甚次郎が虎満丸の名代となった。享禄5年(1532年)に甚次郎は殺害されるが虎満丸は生き残り、翌年(1533年)の細川晴元奉行人奉書にて三宝院門跡領である仏名院分の代官職を安堵されている[1]。 その後の虎満丸の活動は不明である。後継者と見られるのは、永禄8年(1565年)に弾正忠を名乗っている柳本秀俊である[2]。 脚注 [脚注の使い方] 出典 1 2 3 馬部隆弘「細川高国の近習と内衆の再編」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ↑ 馬部隆弘「細川京兆家の内訌と京郊の土豪」『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) 関連項目 畿内・近国の戦国時代 Related Articles